【新潟日報読者文芸欄とは】

  • 新潟県の地方新聞「新潟日報」に、週一回掲載されてた文芸欄。今も多分ある。
  • 「コント」「詩」「俳句」「短歌」「川柳」があったはず。
  • 私が投稿していたのは1979年から1983年まで(中学2年生から高校3年生)
  • 載ると謝礼をもらえた。子供にとってはかなり嬉しい金額だった。

【エンピツ賞とは】


  • 「ビックリハウス」(1985年に休刊)という雑誌が主催
  • 種目:創作、評論、戯曲、エッセイ、シナリオ、ドキュメント、童話、詩歌、コント台本、劇画原作、作詞、小噺戯文、交換日記、ラブレター、雑文パロディその他各種外国語原稿可 だった。
  • 枚数:400字詰原稿用紙1行から10枚まで
  • どういうものが入賞していたかは説明が難しい。とにかく、なんでもありの、唯一無二の文学賞だった。
  • 賞金は無く、エンピツと、審査員からモノがもらえた。

吸盤

 私が中学を卒業した頃、親類が五千円の商品券を祝いにくれた。私は嬉しかったのもので親にせがんで髪をあみこんでもらい、自転車でその商品券の使えるデパートへ行った。中学を卒業したのだし、一人で行った。
 私はまず一番最初に一階を見た。食品売り場しかなかった。次に二階を見た。そこには洋服が売っていた。五千円あるので一着は買おうと決めていた。一人で洋服を買うのは初めてだったので、やはり勇気が出ず、商品券の他に持ってきた五百円札で、靴下を一足買うだけにした。そしてそのまま三階へ行った。三階は雑貨だった。興味がないのでとばした。四階はゲームコーナーと食堂と電化製品売り場だった。ちょっとゲームをしたいな、って気もしたけれど、一応3月31 日までは中学校の規則を守るように言われていたから、がまんをした。
 五千円もあると、なかなか緊張して買えない。私はやっぱり洋服で使おうと決め、階段をおりていった。そして三階に来た時、むこうの方で人が大勢集まっているのが見えた。何かおもしろいショーをしているのかもしれないと思い、ちょっと見てみることにした。このデパートは時々歌手が来ているみたいだったから、どきどきした。
 人ごみはみんなおばさんだった。私はそのおばさんの群れの間から、ひょい、とのぞいた。するとそこにいたのは歌手ではなく、小柄なおばさんだった。その人は両手に何かを持って、しきりにこちらに訴えかけていた。
「お風呂場が、広い家はいいけどね、あたしんとこみたいにせまいとね、お風呂場に物を置いたりするとね、ちょっと動いただけで踏みつけたりするでしょ。そうするとね、転ぶのよ。お風呂場ってすべるからね。あぶないわよね。特に育ち盛りのお子さんのいる家なんて、心配よね。そういう時に、これなのよ」
 そう言ってその人は、横に用意してあったタイルの壁にぺたんと何かをはった。私はこれがなんのショーか理解できないまま、でもこのおばさんの妙な説得力にみとれていた。ふと上を見ると

    @@@
吸盤はべんり

という貼り紙があった。
 おばさんは話を続けた。
「この吸盤。これはすごい発明だと思わない? あたしは思うわ。ほら、これ、表と裏に小さな吸盤が40個ずつついてんの。こんな面積にこれだけ入れるなんて、すごいわよねえ。でもすごいのはそれだけじゃないの。べんりよー。これー。ほらこうしてね、(ぺたん)こうしてね、(ぺたん)ほらほらどんどん。(ぺたん、ぺたん、ぺたん)」
 そう言いながら、その人は大きな箱からいくつもいくともそれを取ってはタイルの壁に押しつけた。みるみるうちにタイル個ぶんの吸盤が、壁に並んだ。色は三色だった。
「これ、どうするのかって言うとね、シャンプーなんか使ってぬれてる時に、ほら、こうして(ぽん)、ほら、ついた。こうするとじゃまにならないでしょ。石けんなんかもね、箱に入れるとどうしても水が切れないでぐぢゅぐぢゅするでしょ、その点これだとね(ぽん)、どーお、べんりでしょお。みなさんの中には、あたしが自分の会社の製品だから適当なこと言ってる、って思う人もいるかもしれないけど、とんでもない。正直な話、あたしこれ実際に使ってるの。お風呂場のタイルに十個貼ってね。シャンプー、リンス、石けん、ヘアブラシ、そんなんみんな、ぺたぺたってね」
 聞いている人達は、なるほど、という顔をしてうなずいていた。気の早い人はもう、五個もらうわ、とわしづかみにしてレジに向かって行った。その人は続けた。
「あたしね、十個使ってるって言ったでしょー、でもね、本当はもっと欲しいの。せまいお風呂場だけどね、この吸盤をそこらじゅうにはりつければ、どこにだって、好きなところに物がつけられるじゃない? 夢よねー、そういう生活。自由って、いいわよねー」
 おばさんの口調が少ししみじみとして、まわりのおばさんのうなずきかたもしみじみとしていた。少し、沈黙があった。そしてそのあと誰かが、あたし十個、と叫んだ。
「ありがとうございます。あ、そうそう、子供と一緒にお風呂に入ってね、もちろんこれをいっぱいつけたお風呂だけどね。そして子供と一緒に石けん投げするってのも、楽しいもんよ。ほら、この赤は一点、緑五点、白十点とか点数つけるの。やっぱり親子のふれあいの場ってお風呂よね」
 十五個いただける? と上品そうなおばさんが言った。私の横にいた初老の小太りなおばさんも、こっちもこっちもーと手を上げた。私はその頃にはもう、これがショーじゃないことに気づいていた。私の横の人達は次々と箱の中からつかめるだけその吸盤を取り、レジの方へいそいそと向かっていく。おばさんの群れが、箱の中へ争って手をのばす。私もつい手を伸ばして勢いで一個とった。さっきの靴下のおつり二百円があるから、それで買ってしまおうと思い、おばさんに混じってレジにむかった。両手で、かかえこむほど持っている人もいた。
 ふとふりむくと売り子のおばさんのまわりにはまた、新しいおばさん達が群がり始めていた。私は吸盤を一つ握りしめて満足していた。今日のお風呂が楽しみだった。やっぱり吸盤は人の心をくすぐる何かがあるに違いない、なんて思っていた。

おばさんの悩み

 私はわりと毛深い。幼稚園児の頃からそうだった。自分の腕が他人と違うのが気になって母親に尋ねると、「大人になれば直る」と言われて、素直に信じていた。でも小学生になってそのことでからかわれたので、もう一度尋ねたら母親は、「大人になればストッキングをはくからわからない」と言った。じゃあ腕はどうなるんだと聞くと、「お母さんは知らない」とつっぱねた。私はその時、この毛は一生はえたままなんだと悟った。
 毎年夏が来る度、私は母親と大ゲンカをするようになった。私は一年中長袖を着て腕をカバーしたい気分だったので、半袖を着せようとする母親に隠れて長袖を着て出かけていた。ある時、母親の着せた半袖の服を隠れて脱いで、長袖のブラウスに着替えたところを見つかったことがある。追いかけられて、叩かれて、それでも脱がないでいたら母親の怒りは爆発した。「いいかげんにしなさいっ」という声とともに、私のブラウスの片袖は袖ごと引きちぎられ、もう片袖は破かれてしまった。当時私が一番気に入っていたブラウスだった。私は泣いた。母親は、「反省してなさい」と言って去った。私は反省はしなかったが、その日から素直に半袖を着るようになった。母親は、ごほうびとしてあのブラウスを直してあげると言った。でも、ブラウスのちぎれた袖は、妹がそれを使って人形の洋服を作ろうとしたためにボロボロになっていた。母親は約束した手前困ったのか、チロリアンテープでつぎはぎをして完成させた。その不気味な民族風ブラウスを抱え、私はもう一度泣いたものだ。
 そして今、私は20才で毛深いことは変わらない。でも昔と違って、いろんな経験を積んで来ている。小学生の時は、小学生雑誌の悩み相談コーナーに、毎年一つは「毛深い悩み」というのが載っていて、そこに答えを求めていた。一般的なのは「オキシフルで脱色する」というものだった。中には、「きゅうりの輪切りを置くと良い」というのもあったが、私は試さなかった。当時の私にとっての最大の問題は、「剃ると濃くなるか」ということだった。そると、母親に怒られた。「剃ると濃くなってひげになる」というのが母親の持論で、「テニスをしていた、手足がひげの女の人の話」や、「着替えていた、手足がひげの女の人の話」というのをよく聞かされた。そして、「手足を出して元気よくすれば、日焼けもするし、擦り切れる」と続いた。その「擦り切れる」というのをヒントにした「軽石でこする」というのが、中学一年生の時、毛深い女の子仲間ではやったことがある。お風呂で簡単にできるが、あれはその時は少しも痛くないのでこすりすぎて、あとで腕がかさぶただらけとなり大恥をかくのだ。当時は腕を見せ合って苦笑いをしていた。
 その他にも、いろいろな方法を試した。夏が来ると、いろいろと対策を練り始めるのだ。スーパーの脱毛用品コーナーには品が並び、コンビニエンスストアにもむだ毛脱色剤が置かれて、ああ、季節だなあ、と思うのである。

 私は、そのデパートで買うのは初めてだった。でも、明日からテニスサークルの合宿なので、どうしても今日中に手足をなんとかしなければならない。三階の化粧雑貨コーナーにはたいてい置いてあるはずだから、私は何の疑いも持たずにそこへ行った。予算的に、脱毛テープが二つは買える。一つを買い置きにするつもりだった。
 三階は人もまばらで、買い易そうだった。別に恥ずかしいものでもない気もするが、20才にもなればもう腕を見せ合って笑ったりはできない。
 たぶん化粧品とかみそりの間くらいに置いてあるという予想をたて、私は迅速に行動した。予想通りの場所ではなかったけれど、案の定、季節柄、大きなコーナーが設けられていた。そしてそこには私が愛用しているメーカーのものもあった。いろいろ品物が取り揃えてあるので目移りしていると、後ろから人が近づいてきて私に話しかけた。
「どう、いかがですか?」
振り返ると、そこには店員風のおばさんが立っていた。私はこういうデパートでこれを買う時に声をかけられたのは初めてだったので、焦った。万引きの疑いでもかけられたのだろうかと思った。そのおばさんはにこにこしながら言った。
「それ、案外いいんですよ」
 私が手にしていたのは脱毛ワックスだった。おばさんは脱毛ワックスの説明を始めた。もちろん私は全部知っていた。
「これはね、中に、ナベとワックスが入っているんですよ。ナベごと火にかけて、ワックスが溶けたら火からおろして、少し冷めたら手に塗るのよね。するとほら、毛を覆うわけだから、そうして固まったものをはいだらね、きれいになるわけ。根元から抜くから長持ちするし、ワックスは何回も使えるし、何回も抜いてると、うぶ毛になっちゃうの」
 私は知っている。嘘だ。何回抜いたってうぶ毛になんかならない。同じ毛が変なはえ方してくるだけだ。ワックスには思い出がある。塗ってから時間を置きすぎて、こびりついてしまって、取る時にひどく痛かった。毛の埋め込まれたワックスの醜さといったら。あんなものをとっておいて溶かして二度使う奴の顔が見たい。
「あの、じゃあ、これなんかどおー? 脱色して目立たなくできるの。あ、脱毛のやつがいいわけ? そうよねえ。除毛剤とかより、脱毛の方が絶対いいわよね。脱毛だと、うーん、やっぱりワックスとか、ゼリーとかあるけど。あ、これこれ、テープはなんかどう?これ、知ってる? 背中に湿布とかして剥ぐ時、うぶ毛なんかが全部ぬけちゃうでしょ。その原理なんだけど。ワックスより安くて手軽に使えるわよ。特に、このメーカーのやつはよくとれるの。ほら、これ見て」
 そう言っておばさんはそのコーナーの陰からすっと何かを取り出して私に見せた。私は、それを見て絶句した。
 それは、濃い毛がぎっしりとはりついた脱毛テープの残骸だった。こんなすごいものは見たことがなかった。こんなに毛深い人にも会ったことがなかった。私は動揺を隠しきれず、おばさんを見た。おばさんはにっこり笑った。
「すごくよくとれるでしょ。ほらこの右手見てみて。このテープのおかげですっかりきれい」
 私はしばらく腕を凝視して、そしてその後に脱毛テープ3個を手にした。おばさんは喜んで、おまけと言ってはいろいろな物をくれた。組み立て式の貯金箱、アドレス帳、そしてティッシュ一個。私は丁寧にお礼を言った。おばさんはテープの残骸を元に位置に片づけてから、その場を離れた。 

葉奈子ちゃんのにおい

 私の家の斜め前に渡部さんという雑貨屋さんがある。雑貨屋のくせに地味な家族で、あまり店も繁盛していない。一人娘の葉奈子ちゃんは私と同い年で、保育園からずっと一緒だから良く知っている。成績が良くて無口なおとなしい子だ。私も、別に嫌いじゃない。でも、渡部さん親子と「玉の湯」で会うのが、私は小さい頃から嫌で嫌でたまらなかった。
 何故かというと、あの人たちがいる時は、いつも風呂場全体に変なにおいがするのだ。妙に酸っぱいような、つんとしたにおいだ。狭い銭湯なので、そのにおいはたちこめてしまう。ただでさえ、土地や老人のにおいてくさいのに、あのすっぱいにおいがそれに加わるととても耐えられない。特に、「玉の湯」に行ったら渡部さん母娘が湯上がりで扇風機にあたっていた時なんて最悪だ。渡部さんちのおばさんは、しかも太っている。
 でも、いくら嫌いでも風呂に入らないわけにはいかない。だから私は、なんとか会わないように工夫をしていた。あの家は8時台が多いので、私が7時台に行くようにすれば会わない。私の努力で、最近はほとんど「玉の湯」で顔を合わせていなかった。
 しかし、私の母の話だと、中学三年生になってから葉奈子ちゃんのにおいは変わってきているのだそうだ。「女のにおいが混ざって甘酸っぱくなった」ということである。私はその「女のにおい」というのが少しうらやましい気がした。葉奈子ちゃんは私よりもずっと女らしい体格をしている。それはあそこのおばさんが太っているせいもあるかもしれないが、本当はああいう女っぽさというか色気というかに憧れている部分が私の中にもあったので、私はわざと会うような時間に行ってみることにした。

 「玉の湯」で会った時、葉奈子ちゃんは「あれえ」といって手をふった。いつもは手をふるような子じゃないのに、その日は妙に明るくて、私は今までわざと避けていたことに少し胸が痛んだ。おけを取ってさっそく葉奈子ちゃんの隣へ行った。目的をとりあえず果たそうと思った。葉奈子ちゃんは頭を洗っていた。最初のうちはよくわからなかったが、そのうちだんだんその「甘いにおい」というのがわかってきた。確かに前のにおいとは違う気がした。前のは酸っぱくて鼻の奥に鋭いにおいだったけど、その時のは何というか、酸っぱくてべたべたする感じだった。でも、もしかしたらシャンプーかリンスのにおいかもしれないとも思った。私は葉奈子ちゃんがリンスを終った様子だったので、そのリンスの香りの種類を聞いてみた。
 葉奈子ちゃんはその日は本当に明るかった。私の質問を聞いたとたん、急に嬉しそうな顔になり、弾んだ声で言った。
「えへ、わかる? あのね、この中にね、ちょっと試しにバニラエッセンス入れてみたんだ。ねぇ、ねぇ、におい、かいでみて」
 そして、葉奈子ちゃんは、私に向かって小びんをさしだした。あんまり見たことのないリンスのびんだな、と思ったけれど、葉奈子ちゃんちは雑貨屋だから、きっと何でもあるんだろうと納得して、それを受け取った。実は私はバニラエッセンスというのをよく知らなかったので、どんな香りなんだろうと期待していた。でも名前からして、おそらくバニラアイスのようなものではないか、と想像した。私は頭にアイスクリームを描きながら、その小びんにゆっくりと鼻を近づけていった。
「ね、バニラエッセンス、わかった?」
 そう言って葉奈子ちゃんは、にこにこしながら私の顔をのぞきこんだ。ねー。バニラエッセンスでしょー。と、何度も繰返して、笑っていた。
 私はその時、思いもよらなかったにおいを力いっぱい吸い込んだ。「えっ何?」という感じと、横ではしゃぐ葉奈子ちゃんへのとまどいですっかり混乱していた。でも、とりあえずほめなきゃと思って、「わーっすごーい。いーなー。いーなー。さすが雑貨屋あ」と言ってびんを返した。葉奈子ちゃんは「やだあ」と笑って湯船の方へ行った。私はその後しばらくそのままぼーっとしていた。
 その時のにおいというのは、バニラアイスの腐ったにおいというもので、どうしていいのかわからないくらいきついにおいで、生まれて初めてかいだにおいで、鼻が一瞬にしてばかになっていた。とにかくあれは葉奈子ちゃんと渡部さんのおばさんのにおいをてっぺんからつま先までかぎつくしたような、そんなにおいだった。そう思ったら吐き気がしてきて、私は、何が女のにおいだ、くさいじゃないか、と、母に文句を言ってやりたかった。もう二度とこの時間帯には来ないぞと決意し、それからはいつもの時間帯に戻した。その日から全然、渡部さん母娘と「玉の湯」で会っていない。

 これは、かなり後になってからわかったことなのだが、私の家の斜め前の渡部雑貨店のおばさんは「エコロジー」に非常に関心の高い人で、時々、町へ行って消費者運動に参加したり、講演を聞いたりしていたのだそうだ。自分の雑貨店ではエコロジー関係のいろんな天然材料の製品を扱っていたらしく、葉奈子ちゃんも子供の頃から、合成シャンプーではなく石鹸シャンプーを、合成のリンスのかわりに普通のお酢を使っていたらしい。
 そういえばずっと昔、葉奈子ちゃんが「かあさんに怒られる」と言って、一人で駄菓子を買わないで気どっていたからという理由で仲間はずれにしたことや、弁当に絶対ソーセージが入っていないのでみんなが同情して、時々おかずの交換をしていたというような、記憶がある。

健康器具

 彼が六十歳の誕生日を迎えた一ヶ月後に私が生まれたので、父も母も、おばあちゃんも、そして彼も、なにか運命的なものを感じたのだそうです。そのため私の名前は彼によって命名されました。それをいいことに私は、「こんななまえきらい」と言って彼を責めては、お菓子を買わせていました。
 若い頃、彼は教職についていました。とてもおだやかで優しい先生だったのだそうです。彼は体育も教えたらしく、老人なのに懸垂が何回もできました。その姿を見るのが楽しみで、私はしょっちゅう彼を散歩に誘ったものです。彼に小学校のグランドで懸垂をさせては、知らない人をつかまえて、
「あれがうちのおじいちゃん」
と自慢をしていました。彼はいつもにこにこしていて、たのめばどんなこともしてくれたので、私や、私の妹は、無邪気に彼をこき使いました。
 私がまだ幼稚園児だったある日、私と妹はいつものように彼と近所の神社へ散歩に行きました。そこにも鉄棒があるので、私は彼に懸垂を期待していました。その日はちょうどその神社に紙芝居屋さんがくる日だったらしく、行ったら子供たちがそこに群がっていました。私と妹は当然のように彼に水あめ代をねだりましたが、その日、彼は財布を持ってきていませんでした。私達はむしょうに腹が立ちました。いつもはねだればどんなものでも買ってくれるのに、その日に限って水あめ代数十円さえも持っていないなんて、絶対許せない気がしたのです。
 私達はその場で思いっきりだだをこねました。そして、当然のように、
「家に帰ってお金を取って来い」
と、彼に命令しました。
 紙芝居屋さんは、5時には次の神社へ行くと言いました。その時は、5時10分前でした。彼は最初、
「もうまにあわないから」
と言って断りましたが、それでも私達がわあわあ言うと、少し考えた後、水あめをなめながらそんな私達の様子を見ていた小学生風の少年たちに向かって、
「君達、ちょっと自転車を貸してくれ給え」
と言いました。
 少年達は驚いたのか一瞬顔を見合わせましたが、一人の子が
「いいよ」
と言うと、その子の仲間数人が
「俺達も行こうぜ」
とつつき合いました。私達は
「はやくー、はやくねー」
と繰返しながら、その場でぴょんぴょん跳ねていました。彼は小学生用の自転車に乗りにくそうにしながら行きました。そしてその後ろを、3人の少年達が少しにやにやしながら自転車でついていきました。
 その後のことはよく覚えていないのですが、たしか結局5時になり、紙芝居屋さんは無情にも去り、その1、2分後、むこうの道から着物のすそがめちゃくちゃになっている彼と、その両側と後ろにひとりずつの少年が、みんな必死な顔をして、ものすごい勢いで自転車をこいでやって来るのが見えました。自転車を貸した少年は、
「じいちゃん、がんばれ!」
と、彼に向かって叫びました。でも私達二人は、紙芝居屋さんが帰った時から、もう、しらけていました。

 年をとる、というのが、その当時は全然分かりませんでした。老人はいつも老人で、それ以上の老人というのが、その時々では思いつかないのです。だから私は彼らの年齢をほとんど意識したことがありませんでした。でも、おしゃべりで社交的で老人クラブにも入っていたおばあちゃんに比べて、無口で学者タイプの彼の老け方は本当に急速でした。
 私が小学校に入学し弟が生まれた頃、母が勤めをやめ、私達は彼ら、つまりおじいちゃん夫婦と、一つの家で分離して生活するようになりました。台所を二つ造り、盆と正月以外の食事は完全に別々にすますようになりました。一つの家に住んでいても、彼らと全く顔を合わせずに生活できました。
 そういうふうに暮らしだしてから、私は彼と会話したりすることはほとんどありませんでした。あるとしても、彼の小銭をあてにして両替を頼む時くらいでした。私はいつからか、彼が「歩いている」姿をあまり見なくなっていました。言葉を発するのも全く聞かなくなりました。でもあまり気にしてはいませんでした。
 そんな頃、父が急に通信販売で「健康家族セット」というものを買いました。ぶらさがり健康器と、ルームランナーと、自転車をこぐと走行距離が表示されるやつの三種で、風呂場の近くのスペースに置かれました。私達は最初は面白がって先を争って使っていましたが、そのうち飽きて、買った父親でさえ全く使わなくなってしまいました。そして結局、場所をとるぶらさがり器と自転車は、離れの物置に片づけられました。私はお風呂上がりにたまにルームランナーの数字が変わるのを見て満足するくらいで、他の健康器具のことはすっかり忘れてしまいました。きっと家族全員が忘れていました。
 ある日、私は美術部の作品を入れる三十号の額縁を探すために、離れの物置に行こうと思いました。その額縁はおじいちゃんが昔、絵を描いていた時のもので、そのアンティークさが部員に好評でした。私が油絵を始めたのも、たまたま物置で道具一式を見つけたからで、私は何の断りもなしにそれらを使っていました。
 私はその明後日から始まる文化祭の摸擬店のクレープのことや、材料の買い出しのことなどをぼんやり考えながら、裏の物置小屋へ行きました。そしてふと見ると、小屋の戸が開きっぱなしになっていました。私は、物置なんかに今ごろ誰だろう、と思って、そっと、中をのぞいてみました。でも、人の気配はしませんでした。
 私は安心して、戸をさらに開けて中に入ろうとしました。薄暗かった小屋に日がさしました。古い本や、たんすや、額縁らしきものも見えました。そしてそれと同時に、すっかり存在を忘れていた健康器具と、その上においてあるなにか黒い「かたまり」が見えました。
 それは、彼でした。彼はその自転車を、まるで止まっているかのように、ゆっくり、ゆっくりと、こいでいました。小さくて黄色いそれに覆い被さるように乗っかって、ほんのかすかに、ういーんういーんという音をたてていました。厚着をしている黒い着物の内側で、足だけがぶるぶる震えながら動いていました。着物のすそが、風になびく程度にひらひらしていました。そして、そんな自転車の下には、誰が敷いたのか上品な色のマットが敷かれていました。その横には、埃にまみれたぶら下がり健康器が誰にも使われることなく放置されていました。
 私はその時、目の前にいるのが誰で今がいつなのか一瞬わからなくなって、口を開けたままその様子を見ていました。でも次の瞬間には、昔のことや今まで無視していた現在の彼の現実を全て思い出して、泣いていました。

 私は十八歳であの家を出て上京しました。盆と正月には帰省しています。そして最近やっとハタチになりました。
 彼は、はちじゅうです。

白いスカート

「ねぇ、あの五目御飯持って立ってる子のスカート、くじらだよぉ」
 京ちゃんが私の肩を両手でつかんで示した方向にいる女の子は、白くてふにゃふにゃした布で黒の細いふちどりのあるスカートをはいていた。そういえばくじら肉みたいだなぁと思いながら、でも私はその女の子の太い足と、5センチもないポニーテールに気をとられていた。スカートと同じ布のリボンをしていた。
 京ちゃんはそのまま私の肩をもみ始め、ちょうどカレーライスを食べ終わった私はされるままになっていた。彼女は力が強いから、よくわからないけれどこりがほぐれるような気がする。ああ、いい気持ちい、と言って交代してあげようとしたら彼女は拒んだ。肩の骨が一本変なので、恥ずかしいのだそうだ。
 私達は食器をかたづけて、学生食堂の廊下のいすに座った。私は単語の本をとりだして今日の分の五つを覚え始めた。こういうことをすると本当に受験生になった気がする。京ちゃんは単語の本を小さく切って折って製本したものを使っていた。表紙は花柄だ。時々彼女が単語をつぶやいたりペンでチェックしたりしているのを見ると、わくわくした。
 ここの予備校は、冷房がきいている。私達の町の公民館の図書室は木造で冷房がないから、私達は一時間半かけてこの夏期講習へ通っている。私はこの夏から本格的に受験勉強を始めた。「国立文系コース」のカリキュラムを選んだ。京ちゃんも同じコースだ。志望校は知らない。でもこのコースを選ぶ人はたいていあそこの大学の教育学部へ行くのだ。京ちゃんもきっとそうだと思う。
 ここの昼休みはすごく短いので、お昼を食べ終わってからもあまりのんびりできない。十分くらい単語をした頃、京ちゃんが立ち上がった。トイレへいくんだとわかったので、ついて行った。女子トイレは一つしかないのでいつ行っても混んでいる。休み時間なんて人が廊下に二列くらいになって待っているし、昼休みだってその時入れなかった女の子であふれかえっている。私達は列の一番後ろに並んだ。トイレの中にも冷房がきいていて、涼しいというより少し寒い。私は、授業開始二分前には席についていたかったので、もうあきらめて帰ろうかと思っていた。
「あ、ほら、見て。くじらがいる」
 手を洗う場所の方をあごで示しながら、京ちゃんが言った。手を洗う人たちの列の一番前に、さっき五目御飯を持っていた子がいた。でも、なんだか様子が変だった。自分の白いスカートをつまんでひっぱって、水道の水にさらしているみたいだった。太い足があらわになっていた。私は、きっと五目御飯をこぼしたんだ、と思って見ていた。その子が時々、
「ああ、いやんなっちゃうう」
と、つぶやいているのが聞こえた。そして、しぼったしわを、ぱん、ぱん、とたたいてのばした時、スカートについているしみが見えた。薄い赤が広がっていた。
「あれだよ、あれ。あれになったんだ、きっとあの子」
 京ちゃんがそっと私に言った。私は、そうかあ、と思って、京ちゃんに感心した。そういえばつまみ洗いしている部分は、ちょうどおしりのところのような気もした。私はじろじろ見るのをやめた。そして、寒いねぇ、ここ、と言った。
 そのうち、トイレの順番がまわってきた。終って手を洗おうとしたら、その子はまだそこにいた。京ちゃんは全部すまして出入り口のそばに立っていて、私に手を振った。私が、もう先生来てるよねぇ、と言うと、京ちゃんは、
「とっくだよお」
と言って、走りだした。くじらの子は独り言を言いながら、もうすっかり人のいない女子トイレで、まだスカートを洗っていた。

「私ね、私立専願に変えるんだぁ」
 その日の授業が終って、学生食堂の廊下のいすに座って単語をしながら京ちゃんが言った。私はびっくりして京ちゃんを見た。私立大学というとつまり「県外の大学」だ。ということはたぶん「東京の大学」だ。私はこのあたりの人で大学に進学するっていえば、当然地元のあの大学だと思っていたし、あそこへ行けなかったら就職するのがきまりみたいなものだったから、私立大学なんて考えたこともなかった。
「だって、数学とか理科とかしたくないし、めんどうだしさぁ」
 京ちゃんはそう言って首をぼきぼきならした。そういえば、京ちゃんの家は私の家よりずっとお金持ちだし、お父さんが大学出てるから、そういうのも平気なのかもしれないなぁ、と思った。ショックだった。親に話したら、きっと京ちゃんの家の悪口を言うようになるに違いなかった。
「それにさぁ」
 京ちゃんはくすっと笑った。
「三田くんがね、むこうの大学、推薦で決まっちゃったんだって」
 私がきょとんとしていると、京ちゃんはあはあは笑って私をばしばしたたいた。私は、それでやっと意味が分かって、驚きで声が出なかった。信じられなかった。京ちゃんが、今まで自分と良く似ていると思っていた京ちゃんが、男の人の名前をだして、あはあは笑うなんて。
 私は、京ちゃんも女だったんだねぇ、と、驚きをかくして無理やり言った。
「そうだよぉ、当然だよぉ」
と、京ちゃんは後ろから肩に腕をまわしてきた。胸が、背中にむにゅっとあたった。
 ふと見ると、横にある自動販売機の前で、三人の女の子が高い声で話しながらジュースを買っていた。その中で、
「私、コーヒーぎゅうにゅうう」
と言ったのは、例のくじらの子だった。京ちゃんは、私の背中で体をぐりぐりさせながら「三田くん」の話をしていたので、彼女に気がつかない様子だった。私は、京ちゃんの話にあいづちをうちながら、くじらの子のスカートのおしりの部分をじいっと見た。くいいるように見た。
 くじらの女の子のスカートには、しみ一つなかった。すっかりきれいに落ちていて、まっ白だった。でも、ひらりとひるがえったそれはさわやかじゃなかった。全然、さわやかじゃなかった。

鉛筆

 夏期講習に通い始めて6日目のある日、京ちゃんが急に風邪で休んだ。そういえば昨日京ちゃんは薄着だったし、冷房の前の席に座ったしなあ、と私はぼんやり考えていた。今日は京ちゃんが辞書を持ってくる日だったので、本当は少し困っていた。
 私が手持ちぶさたで単語の本を折り直していると、誰かが私の肩をがつんとつついた。驚いて顔を上げると、その人は、
「きゃーやっぱりムクちゃんじゃー」
と言って、大げさに私をゆさぶった。私はムクちゃんて聞いたとたん、なんとなく顔がひきつった。
 彼女は、私の中学時代の同級生の「原田さん」で、(原田さんはいつも「はらら、って呼んで」と言っていたが、私は原田さんと呼んでいた)割と誰にでも人なつっこく話しかける人だった。でも、話し方とかに独特なものがあって、私は何故かいつも彼女の前だと顔がこわばってうまく笑えなかった。彼女は、授業中いつもノートにまんがを描いていた。隣の席だった頃、私がそれを見ようとするたび、彼女は、きゃあ、と言ってノートを隠した。でも見えるように描いていたし、時々見せてくれた。
 彼女の描く「まんが」というのは、いたずら描きという感じではなく、それ専用のノートに表紙ページもつけた鉛筆描きのストーリーまんがだった。内容はたいてい宇宙ものだった。私が隣で退屈そうにしていたら、「ここにベタをぬって」と2Bの鉛筆を渡されたこともあった。彼女の筆入れには、3Hから4Bまでの鉛筆がそろっていた。「カケアミにはHがいいんだ」とかいう言葉に、私はよくわからないまま「へぇー」とうなずいていた。
 でも、彼女のまんがの登場人物は決まって、「むかって左ななめ前」を向いていた。どの場面でも、誰もが一方方向を向き、その状態で恋愛をしていた。

 「ムクちゃん、教育なのかあ」
 原田さんは、私の隣の席に座って言った。私は視線をなんとなくそらしてテキストをぱらぱらめくりながら、いちおうね、と言った。
 私は、彼女が私のことをムクちゃんと呼ぶのがすごく嫌だった。そんな名前で呼ぶのは彼女だけだった。ムクちゃんというのは、彼女しか知らない「ある人」−つまり、彼女の描いたまんがの登場人物の−愛称なのだ。私がその男の人に似ているなんていうのは、私はなんだか迷惑だった。
 原田さんは、私の横で一方的にいろんなことを話した。私は口元に笑う用意をしたままであいづちを打った。何度も何度もあいづちを打っていたら、ブザーがなって次の英語が始まった。私は、あ、辞書忘れちゃった、とかばんを見るふりをした。すると彼女は辞書で私をなぐるポーズをとった。私は一瞬、本当に驚いた。彼女はわはわは笑った。

 英語の授業が終わって、お昼になった。私は今日は学生食堂で絶対五目御飯を食べようと思っていた。行きがかり上、原田さんといっしょに食べることになった。彼女は歩きながらポケットからさいふを取り出して中をのぞきこんでいた。そして、
「うーん、これじゃあ五目御飯しか食えんなあー」
と言って、ちっ、と舌を打った。私はちょっと考えて、
「私も、お金ないから、そうする」
と原田さんの方を見た。彼女は、両手を口元で握り、
「うっ、感激。らりほぅー♪」
と言って、その場でとんとん、と跳ねた。
 学生食堂「るーえ」は、毎日先着百名に店名入りの鉛筆を配っていた。そんなあまり役にたたないHBの鉛筆をもらってもうれしくなかったけれど、鉛筆分くらいしか席がないから、ただの印としてみんな受け取っているらしかった。
 私達も鉛筆を一本ずつ受け取り、五目御飯を持って席についた。京ちゃんだったらいつも、いらない、と言って私に渡すので、私はもうこの鉛筆を十本以上もらっていることになる。私が鉛筆にうんざりしながら、スプーンで五目御飯を食べていると、横にいた原田さんが、席を立ってどこかへ行った。水を持ってきてくれるんだったら嬉しいけど、でも違うんだろうなあ、と思いながら、私は食べ続けていた。五目御飯は半分食べると飽き飽きする。
 そのうち原田さんが、にこにこしながら戻ってきた。手を見ると、やっぱりコップは持ってきていなかった。そしてその代わりに、さっきここでもらった鉛筆を、四本持っていた。両手に、二本ずつ握り締めていた。
 彼女は、
「もらっちゃったよー、わあい」
と言って、その場でまた、とんとん、と跳ねた。そして鉛筆をスカートのポケットに入れて座った。ポケットからは鉛筆が半分以上見えていた。私はもう食べられなかったので、席を離れて水を取りに行った。
 その後、彼女はすごい勢いで五目御飯を食べながら、志望校のこと、彼女の両親が理解がないということ、そして、まだ趣味でまんがを描いていて、この学生食堂の鉛筆はその「主線入れ」に最適だということを話してくれた。食べおわった後、彼女はさいふからなにか薬を取り出して飲み始めた。風邪?と聞くと、
「偉いでしょ。これをもらうために無理矢理来たんじゃい」
と、ポケットの鉛筆をたたいた。私はやっぱりうまく笑えなくて、でも笑った。
 私は、原田さんに自分の鉛筆を渡して、あと十本あげるから、まんが完成したら見せてね、と言った。原田さんは、
「ムクちゃん、好きじゃあ」
と、私に抱きついた。何だか、汗ばんでいた。

 午後、原田さんは帰った。私はその日、一方方向を向いて抱きしめあう花畑のことを考えていた。

みかん

 どうして果物が嫌いなの、とチョコレートパフェの上に飾ってあるつるつるとしたそれらを除いている私に彼が聞いた。どう答えるべきかしらと考えながら、私はバナナにフォークを刺した。
「俺、バナナ、好き」
 ということは、欲しいということなのかしらと、私はそのフォークを彼の目の前に突き出してみた。バナナは歯ごだえが変だから嫌いだった。だからこれに平気で食らいつくやつをみたいと思った。彼は私の目を意識したかのようにバナナを奪った。そして口をあけ、むにょりと食べた。

 私はつい目をそらしてそこの喫茶店の壁にある傷を見つめた。汚い店だった。汚い店のバナナを食べる汚い若者と、それをながめる少女の図。絵になるものか。私はスプーンに自分の顔を映して遊んだ。彼はアイスコーヒーを飲み始めた。

 かんづめのみかんが死にそうな顔でつぶれているパフェは醜いから大嫌いで、大嫌いなものを注文した私は変わっていて好きだった。スプーンで、そのチョコレートにまみれたみかんを掘り出して彼に渡すと、彼はふうんといいながら、でも、もう食べなかった。

 いちばん最後に編集部に行った日(「みかん」参照)、エンピツ賞の賞品のひとつだった「糸井重里さん使用のペンギンのライト」を、直接持って帰りました。その日は最後だとわかっていたので、カメラを持参して、エンジンルームの写真などを撮りつつ。上村悦子さんの写真も、撮らせていただきました。「休刊パーティあるから、また連絡するかも」といわれたけど、連絡来なかったな。ずっと「いつなんだろう」と思っていたけれど、しばらくして、何かの雑誌でビックリハウスの休刊パーティの様子の話がチラッと載っていて、「ああ、連絡来なかったんだー」とその時ほんの少しだけ切ない気持ちになりました。まあ、考えたらがっかりする方が図々しいというか。

 おっきなペンギンを抱えて渋谷から帰る途中、ロッテリアでリブサンドを食べ、テーブルにそのペンギンを置いて写真を撮りました。小平の4畳半のアパートに戻ってからも、セルフタイマーでペンギンと一緒に写真撮ってました。当時の日記を見ると、「短かったけど楽しかった。いい経験だった。」と書いてありました。まさしく、そんな感じ。自分の文章が雑誌に載るってのは、楽しいことです。
 でも、その思い出のペンギンも、4畳半一間ではそのうち邪魔になって実家に引越し、さらに弟が大学へ入るときに仙台へ行き、仙台で余生を過ごしたようです。弟には「糸井重里のペンギン」と一応言っておいたけど、信じてたかな。


ペンギンinロッテリア写真

ペンギン in ロッテリア

ペンギンin四畳半写真

ペンギン in 四畳半