映像の世紀

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 やさぐれよりも疲労からくるのか、たまっている録画を見よう(ハート)といったような、うきうきした気持ちになっていない。いや、本当は「そんなことをしている場合じゃない」という、昔から私を停止させるための負方向の機能が働いているのだと思う。浮かれるな。楽しむな。今はそんな場合じゃないでしょ。

 (何の根拠も無いけど、あと10年くらいしか時間が無いかもしれないのにな。)

 たまっている録画を見よう(ハート)は主に加藤さん関係の録りだめなのだが、その変なストッパーがかかって山を眺めているだけな状態になっている。

 一方、いま、時間があるときに見ているのは「映像の世紀デジタルリマスター版」の録画なのだった。私は歴史に全く興味がなくて今までこの番組を見ようと思ったことも無かったのだけれど、近代史を学び直そうかと軽い気持ちで録画して見たらその圧倒的な映像の力に、興味の有無などという感覚がねじ伏せられてしまった。

 基本的に既に知っている歴史であるので、「がんばって見てストーリーを理解しよう!」という、脳に対する加圧が必要ない。それがちょうど今の疲労にまみれた私にはあっていて、ぼんやり座ってそこにうつる今は全員死んでしまった人たちが生き生きとしている映像をただ眺める。みんな一生懸命だ。でももう全部終わっているんだよな。そして、この番組を見ることは、大人として必要なことだと自分内検閲をパスしているのか、負の力も働いてくることは無い。

 私の祖父(だいすきだったおじいちゃん)は1906年生まれで、私とちょうど60歳差のひのえうま。20年前に亡くなった。歴史が1906年以降の話になると、私はそこに幼児の頃のおじいちゃん、少年の頃のおじいちゃん、青年になったおじいちゃんの姿を想像する。私は祖父の目で映像を眺める。どんな風に彼はこの時代に存在したんだろう。

 今のところ第4集まで放送されている。だいすきだったおじいちゃんは、30代になったよ。