誰か

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いつものことだが、思い出話をする。

大学時代、私はよく公開収録に申し込んでいた。交通費だけで楽しめる、都会近郊に住む暇な貧乏人の娯楽の1つだった。ほとんど当たらない人気番組もあれば、並べば普通に観覧できるものもあった。

よく行っていたのは生放送のバラエティだったけど、何回かに一回は収録の番組もあり、その時は収録後に伝えられた放映予定日を心待ちにした。自分が客席に写っているかどうかなども気にしながら、記憶と照らし合わせ番組を見る。でもたいてい、自分が公開収録で見てきたものとは違うものなのだった。

収録の時に面白かったからもう一回見たいと思っていたシーンが全てカットされている程度のことはたいしたことではなくて、あれ、こんな流れだったかな、これは別のことを受けてのコメントで、みんなこんなに笑っていなかったよなと思ったりすることもあった。確認する術はない。でも、仕上がったものには私の見た収録が一応は詰め込まれているのに、ある種の架空の世界なのだった。映像として共有されるのはこの番組だけで、私があそこで見たものは消える。あの場にいた誰かの記憶の中に残っているかもしれない。でももう私の中でも輪郭線がぼんやりとしている。放送された映像で記憶が上書きされてしまうような。

あの時素人大学生の私にわかったのは、私が目にしていた光景は素材で、そこにいた芸能人は映像素材を提供する人たちでしかないということなのだった。それまでほとんど気にしたことのなかった、映像を編集する「誰か」の大きさに気付いたのもその時だ。

その「誰か」を意識してテレビを見ていると、収録に行ったわけでなくても、ここは別のシーンで笑っているものを差し込んでいるのかなとか、ここの順番を入れ替えているのかなと思うようになる。実際、全く同じ笑っているシーンが2 度差し込まれたり、いるはずの人がいなかったりといった雑な編集も度々あって、まあ、ここは、そうだな、たしかにこうした方が面白いかもなと思ったりしていた。

その頃は80年代で、自分で映像を編集したり、ましてや加工するというイメージなど全く持てないアナログな時代だった。貧乏学生だった私はビデオデッキすら持っておらず、自分が見に行っていたそれらの番組を録画することすらできなかった。

就職してから私は仕事で本格的にデジタルの世界に接した。「リコンフィギュアード・アイ」という本を読んで、写真がますます信用できなくなるこれからのデジタル時代のことを思ったのもその頃だ。若干の気持ちのざわつきを覚えても、当時は自分の都合のいい未来しか思い描いておらず、楽観的だったような気がする。

今、私が生きているこの時間は確実に、あの頃の技術の上に積み重ねられた未来だということはわかっている。でももし、連続した記憶で間を埋めることができなかったら、私はこんな時代を信じられるんだろうか。手元にはいつもデジタルで撮像できて、加工できて、世界へ発信できる小さな道具がある。昔はごく一部のプロフェッショナルが仕事でやっていた編集や加工は、今や誰でも簡単にできる。私を含む誰もが映像素材になり得て、それを使って編集された「架空の世界」が手軽に仕上がる。そして、それを誰もがすぐさま全世界にバラまける。

そこら中にあふれている膨大な数の映像の一つ一つは姿の見えない「誰か」が編集した結果だ。切り捨てられた部分の内容も、それを捨てた理由も、与えられたデジタルデータからは復元できないが、確実なのは、それをそう見せたい誰かがそこにいる、ということ。昔公開収録の時に認識したのと同じ、誰か、ではあるけれど、あの時よりもっと得体の知れない、誰か、だ。

本人が加工して見せたいものを発信している鎧のような架空の映像だけではなく、隠し撮られて、何らかの思惑のもと切り取られたようなものも実際存在する。そういう類のデータを目にしたり、それを嬉々として拡散して盛り上がっている様子を目の当たりにすると、私はあの頃楽観的に思い描いていた未来ではない、誰かの自己顕示欲や他者への悪意で技術がどろどろにされている未来に来ているんだなと思う。