吸盤

 私が中学を卒業した頃、親類が五千円の商品券を祝いにくれた。私は嬉しかったのもので親にせがんで髪をあみこんでもらい、自転車でその商品券の使えるデパートへ行った。中学を卒業したのだし、一人で行った。
 私はまず一番最初に一階を見た。食品売り場しかなかった。次に二階を見た。そこには洋服が売っていた。五千円あるので一着は買おうと決めていた。一人で洋服を買うのは初めてだったので、やはり勇気が出ず、商品券の他に持ってきた五百円札で、靴下を一足買うだけにした。そしてそのまま三階へ行った。三階は雑貨だった。興味がないのでとばした。四階はゲームコーナーと食堂と電化製品売り場だった。ちょっとゲームをしたいな、って気もしたけれど、一応3月31 日までは中学校の規則を守るように言われていたから、がまんをした。
 五千円もあると、なかなか緊張して買えない。私はやっぱり洋服で使おうと決め、階段をおりていった。そして三階に来た時、むこうの方で人が大勢集まっているのが見えた。何かおもしろいショーをしているのかもしれないと思い、ちょっと見てみることにした。このデパートは時々歌手が来ているみたいだったから、どきどきした。
 人ごみはみんなおばさんだった。私はそのおばさんの群れの間から、ひょい、とのぞいた。するとそこにいたのは歌手ではなく、小柄なおばさんだった。その人は両手に何かを持って、しきりにこちらに訴えかけていた。
「お風呂場が、広い家はいいけどね、あたしんとこみたいにせまいとね、お風呂場に物を置いたりするとね、ちょっと動いただけで踏みつけたりするでしょ。そうするとね、転ぶのよ。お風呂場ってすべるからね。あぶないわよね。特に育ち盛りのお子さんのいる家なんて、心配よね。そういう時に、これなのよ」
 そう言ってその人は、横に用意してあったタイルの壁にぺたんと何かをはった。私はこれがなんのショーか理解できないまま、でもこのおばさんの妙な説得力にみとれていた。ふと上を見ると

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吸盤はべんり

という貼り紙があった。
 おばさんは話を続けた。
「この吸盤。これはすごい発明だと思わない? あたしは思うわ。ほら、これ、表と裏に小さな吸盤が40個ずつついてんの。こんな面積にこれだけ入れるなんて、すごいわよねえ。でもすごいのはそれだけじゃないの。べんりよー。これー。ほらこうしてね、(ぺたん)こうしてね、(ぺたん)ほらほらどんどん。(ぺたん、ぺたん、ぺたん)」
 そう言いながら、その人は大きな箱からいくつもいくともそれを取ってはタイルの壁に押しつけた。みるみるうちにタイル個ぶんの吸盤が、壁に並んだ。色は三色だった。
「これ、どうするのかって言うとね、シャンプーなんか使ってぬれてる時に、ほら、こうして(ぽん)、ほら、ついた。こうするとじゃまにならないでしょ。石けんなんかもね、箱に入れるとどうしても水が切れないでぐぢゅぐぢゅするでしょ、その点これだとね(ぽん)、どーお、べんりでしょお。みなさんの中には、あたしが自分の会社の製品だから適当なこと言ってる、って思う人もいるかもしれないけど、とんでもない。正直な話、あたしこれ実際に使ってるの。お風呂場のタイルに十個貼ってね。シャンプー、リンス、石けん、ヘアブラシ、そんなんみんな、ぺたぺたってね」
 聞いている人達は、なるほど、という顔をしてうなずいていた。気の早い人はもう、五個もらうわ、とわしづかみにしてレジに向かって行った。その人は続けた。
「あたしね、十個使ってるって言ったでしょー、でもね、本当はもっと欲しいの。せまいお風呂場だけどね、この吸盤をそこらじゅうにはりつければ、どこにだって、好きなところに物がつけられるじゃない? 夢よねー、そういう生活。自由って、いいわよねー」
 おばさんの口調が少ししみじみとして、まわりのおばさんのうなずきかたもしみじみとしていた。少し、沈黙があった。そしてそのあと誰かが、あたし十個、と叫んだ。
「ありがとうございます。あ、そうそう、子供と一緒にお風呂に入ってね、もちろんこれをいっぱいつけたお風呂だけどね。そして子供と一緒に石けん投げするってのも、楽しいもんよ。ほら、この赤は一点、緑五点、白十点とか点数つけるの。やっぱり親子のふれあいの場ってお風呂よね」
 十五個いただける? と上品そうなおばさんが言った。私の横にいた初老の小太りなおばさんも、こっちもこっちもーと手を上げた。私はその頃にはもう、これがショーじゃないことに気づいていた。私の横の人達は次々と箱の中からつかめるだけその吸盤を取り、レジの方へいそいそと向かっていく。おばさんの群れが、箱の中へ争って手をのばす。私もつい手を伸ばして勢いで一個とった。さっきの靴下のおつり二百円があるから、それで買ってしまおうと思い、おばさんに混じってレジにむかった。両手で、かかえこむほど持っている人もいた。
 ふとふりむくと売り子のおばさんのまわりにはまた、新しいおばさん達が群がり始めていた。私は吸盤を一つ握りしめて満足していた。今日のお風呂が楽しみだった。やっぱり吸盤は人の心をくすぐる何かがあるに違いない、なんて思っていた。


 「ビックリハウス」1984年8月号掲載。第18回エンピツ賞入選作品です。(見砂直昭と東京キューバンボーイズ賞)

 ほとんど原文のままです。
 これを読んで、自分が随分昔の人間であることを再確認しました。500円札…。