加藤先生の二作目の件

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「ピンクとグレー」の時は、読み手として思いつめていた部分があったというか、変な緊張感を持ちつつ本を手にしたことを覚えている。あの頃はNEWSをウォッチしはじめそれはもう物凄い勢いで過去を辿ってはまっていったのに、これからの活動の情報など全く得られず、悲観的な声ばかり聞こえていた頃だった。
そんな、全く情報が与えられない頃に、加藤君の処女作「ピンクとグレー」が供給された。そのためか、本に書かれているいろんな文章を貪りつつ、過剰なくらいに真剣に感想文を書いてしまったような気がする。

去年NEWSは再始動し、ベストアルバムとシングルをリリースし、夏にはツアーを行った。結局私は可能なものはすべて買い、中2女子と二人で神戸のライブを見に行ったり、4歳児とイベントにも参加したり。それはもうなにひとつ言い訳できないくらいにファンらしい暮らしぶりだった。
そんなこんなで、アイドルNEWSが送り出してくれたものを一年間ほぼ見てきた私は多分、一般の小説のように「閃光スクランブル」を読むことは難しい。

例えば私の娘が小説を書いたとしたら、その小説を解析して、彼女という人間の理解への手がかりにするような気がする。同じようなことが「閃光スクランブル」にも言える。それはある程度仕方がないことだが、小説を書く立場からしたら「違う。そうじゃない」と反論することもできないことだったりするんじゃないかとも思う。

私自身ちょっとした心当たりがある。
私は中学生や高校生の頃、とにかく時間があれば何かを書いて新聞に投稿したりするのが趣味なイタイ子だった。小説、詩なども含む各種駄文。もちろんペンネームを使ったりしていたので、自分ではうまく隠れてやっていると思っていた。
ある時、父親の本棚にあったスクラップブックを勝手に見たら、そこには私が投稿したもの(と父親が思った記事)がたくさん貼り付けてあった。私じゃないものが混ざっていたりもしたが、一番嫌だったのは、私の書いた小説のところどころに蛍光ペンでマークがついていたことだった。

父親がどういうつもりでマークを付けてそれで何を感じたのかなどは知りようがないけれど、そのマーク付けされていたところは確かに私が実際使っている道具だったり、なにか現実の私とリンクする部分ではあった。でもあくまで小説として自分と切り離して完成させたはずの世界だというのに、その蛍光ペンが生の私をあぶりだそうとするのだった。かなり無理やり、こじつけ気味に。

だから私も単純に書かれたものの一部を切り出すだけの「マーカー」のようなことはしたくないとは思うのだけど、基本的にファンの妄想上の存在である「アイドル」との兼業作家となると、「アイドル」というリアルなようで結局はフィクションなものがサイドストーリーになっているようなちょっと面白い構造にも思えてくる。小説を読むとともにアイドルである著者を解析して楽しむという若干身勝手なエンタメ。

ピンクとグレーが提供されたあの頃、読み手としての心情と小説の内容にリンクする部分があったように、エンタメ小説と位置付けた「閃光スクランブル」も、NEWSの活動で加藤君を満喫させてもらった去年をふまえて読むからより楽しめる気がする。というより、そういう複合的な快楽に近い刺激は普通に小説読むことじゃ味わえないことのような気がする。

以上、だらだらと書いたが、私は結局、加藤君が小説で使った「覚悟」って言葉のことを言いたいだけなのかもしれない。去年NEWSの活動を見ていなかったら、その言葉の深度に気がつくことはなかっただろうから。

感想文はまたいつか。でも何事も忘れないうちに書くのが大事。