観客

 その日はテニス部と卓球部の大会があって、部員は学校に来ていなかったので、教室が閑散としているように育代は感じた。いつも元気のいい人たちの机には、その朝のホームルームに配られたプリントが置かれっぱなしになっていた。
 育代の隣の席の男子生徒も卓球部員で、試合に行っていた。たいして話したこともないが、いないと結構寂しいものだった。育代はその机の上に散らばっていたプリントをまとめて、机の中に入れてあげた。卓球部はその日から三日間、試合があると聞いていた。どうせ勝ちっこないのに、と育代は思った。
 テニス部の先生もいないので、物理が自習になった。育代は仲の良い友人がテニス部なので、少し孤独だった。高校二年生になって一ヶ月半。まだみんな表面でしかうちとけていない。でもその表面のなごやかさも、中心人物がいないその日ははがれ落ちていた。ほとんどの人が、前の学年のクラスの仲間とくっついていた。育代は、暇だった。自習をまじめにやるしかないほど暇だった。話し相手がいないのだからしかたないのだが。
「へぇ、育って、まじめな人なのね」
 育代の隣の空席に、一人の女子生徒が腰掛けた。吉田裕子……確か名簿が最後から二番目で、おとなしいと言われている人だ。育代はこの人と話したのは初めてだった。『別にどうってことない人』という程度の人でしかなかった。育代はそんな『吉田さん』が自分を『育』という愛称で呼んだのが意外だった。
「別に、まじめじゃないけどね。ただ、ヒマでヒマでしかたないから教科書読んでるの。吉田さんは?」
「吉田さんなんて…。裕子でいいよ」
 意表をつかれて、育代は少しうろたえた。この人は自分と仲良くなりたがっているのだろうか。じゃあ、仲良くした方がいいのだろうか。育代は、吉田裕子…彼女の顔をじっと見た。わざとらしい笑顔だ、と思った。
「育ってさあ、卓球部だったじゃんじゃない? どうしたの? やめちゃったの?」
 精いっぱい明るくしゃべっている、という感じの話し方で裕子が尋ねた。この人も話題を探してきたのだろう。育代は笑って、物理の教科書を読むふりをした。
 育代は一年生の時、確かに卓球部員だった。中学の時もやってたし、嫌いじゃない。でも結局やめた。母親には、「勉強忙しくって」と言った。友人には「クラブの人間関係にうんざりしたの」と深刻な顔で説明した。先生には「体の調子が悪い」などと理由を作った。どれも、本当の原因じゃない。本当の原因、そんなものもきっとないに違いない。単なるなまけ心が育代を支配しただけなのだ。熱心とか、努力とかそういう単語がばからしく思え、楽な空間を泳ぐためだけに、育代はラケットを捨てた。
 裕子は、育代があまり会話にのってこないのを見てどこかへ消えた。女子の高い声が、教室にひときわ響いている。育代は物理の教科書を閉じて机に頭をのせた。眠かった。
 やっぱり頭に浮かんでくるのは卓球台だった。育代はユニホームを着て立っている。相手はなぜか育代の隣の席の少年で、育代はサーブを打っても打っても入らない。いつのまにか育代は観客になって、手をパチパチたたいていた。横には裕子がいた。
 後悔じゃないのだ。育代は頭の中の裕子に言った。後悔じゃないのだ。私はこれを望んでいたに違いないのだ。だから…。
 育代は起きて隣の席を見た。そしてもう一度教科書を開いた。あと五分で自習時間は終わりだった。


新潟日報読者文芸 1982年頃 掲載。
高校二年生のときです。

 読者文芸の「コント」に掲載された短編小説は、全部で4篇でした。そのほかにも掲載されなかったものもありましたが、やはり小説はどこか力が入っていて、今読んで抵抗の無いものはほとんどないです。

 今更こうやって整理してホームページに載せる自分の行動もよくわかりませんが、抵抗はあるけれど愛着があるのか、今はもう亡き昔の自分を何らかの形で残しておきたいのか。
 読んでくださった方、どうもありがとうございました。