健康器具

 彼が六十歳の誕生日を迎えた一ヶ月後に私が生まれたので、父も母も、おばあちゃんも、そして彼も、なにか運命的なものを感じたのだそうです。そのため私の名前は彼によって命名されました。それをいいことに私は、「こんななまえきらい」と言って彼を責めては、お菓子を買わせていました。
 若い頃、彼は教職についていました。とてもおだやかで優しい先生だったのだそうです。彼は体育も教えたらしく、老人なのに懸垂が何回もできました。その姿を見るのが楽しみで、私はしょっちゅう彼を散歩に誘ったものです。彼に小学校のグランドで懸垂をさせては、知らない人をつかまえて、
「あれがうちのおじいちゃん」
と自慢をしていました。彼はいつもにこにこしていて、たのめばどんなこともしてくれたので、私や、私の妹は、無邪気に彼をこき使いました。
 私がまだ幼稚園児だったある日、私と妹はいつものように彼と近所の神社へ散歩に行きました。そこにも鉄棒があるので、私は彼に懸垂を期待していました。その日はちょうどその神社に紙芝居屋さんがくる日だったらしく、行ったら子供たちがそこに群がっていました。私と妹は当然のように彼に水あめ代をねだりましたが、その日、彼は財布を持ってきていませんでした。私達はむしょうに腹が立ちました。いつもはねだればどんなものでも買ってくれるのに、その日に限って水あめ代数十円さえも持っていないなんて、絶対許せない気がしたのです。
 私達はその場で思いっきりだだをこねました。そして、当然のように、
「家に帰ってお金を取って来い」
と、彼に命令しました。
 紙芝居屋さんは、5時には次の神社へ行くと言いました。その時は、5時10分前でした。彼は最初、
「もうまにあわないから」
と言って断りましたが、それでも私達がわあわあ言うと、少し考えた後、水あめをなめながらそんな私達の様子を見ていた小学生風の少年たちに向かって、
「君達、ちょっと自転車を貸してくれ給え」
と言いました。
 少年達は驚いたのか一瞬顔を見合わせましたが、一人の子が
「いいよ」
と言うと、その子の仲間数人が
「俺達も行こうぜ」
とつつき合いました。私達は
「はやくー、はやくねー」
と繰返しながら、その場でぴょんぴょん跳ねていました。彼は小学生用の自転車に乗りにくそうにしながら行きました。そしてその後ろを、3人の少年達が少しにやにやしながら自転車でついていきました。
 その後のことはよく覚えていないのですが、たしか結局5時になり、紙芝居屋さんは無情にも去り、その1、2分後、むこうの道から着物のすそがめちゃくちゃになっている彼と、その両側と後ろにひとりずつの少年が、みんな必死な顔をして、ものすごい勢いで自転車をこいでやって来るのが見えました。自転車を貸した少年は、
「じいちゃん、がんばれ!」
と、彼に向かって叫びました。でも私達二人は、紙芝居屋さんが帰った時から、もう、しらけていました。

 年をとる、というのが、その当時は全然分かりませんでした。老人はいつも老人で、それ以上の老人というのが、その時々では思いつかないのです。だから私は彼らの年齢をほとんど意識したことがありませんでした。でも、おしゃべりで社交的で老人クラブにも入っていたおばあちゃんに比べて、無口で学者タイプの彼の老け方は本当に急速でした。
 私が小学校に入学し弟が生まれた頃、母が勤めをやめ、私達は彼ら、つまりおじいちゃん夫婦と、一つの家で分離して生活するようになりました。台所を二つ造り、盆と正月以外の食事は完全に別々にすますようになりました。一つの家に住んでいても、彼らと全く顔を合わせずに生活できました。
 そういうふうに暮らしだしてから、私は彼と会話したりすることはほとんどありませんでした。あるとしても、彼の小銭をあてにして両替を頼む時くらいでした。私はいつからか、彼が「歩いている」姿をあまり見なくなっていました。言葉を発するのも全く聞かなくなりました。でもあまり気にしてはいませんでした。
 そんな頃、父が急に通信販売で「健康家族セット」というものを買いました。ぶらさがり健康器と、ルームランナーと、自転車をこぐと走行距離が表示されるやつの三種で、風呂場の近くのスペースに置かれました。私達は最初は面白がって先を争って使っていましたが、そのうち飽きて、買った父親でさえ全く使わなくなってしまいました。そして結局、場所をとるぶらさがり器と自転車は、離れの物置に片づけられました。私はお風呂上がりにたまにルームランナーの数字が変わるのを見て満足するくらいで、他の健康器具のことはすっかり忘れてしまいました。きっと家族全員が忘れていました。
 ある日、私は美術部の作品を入れる三十号の額縁を探すために、離れの物置に行こうと思いました。その額縁はおじいちゃんが昔、絵を描いていた時のもので、そのアンティークさが部員に好評でした。私が油絵を始めたのも、たまたま物置で道具一式を見つけたからで、私は何の断りもなしにそれらを使っていました。
 私はその明後日から始まる文化祭の摸擬店のクレープのことや、材料の買い出しのことなどをぼんやり考えながら、裏の物置小屋へ行きました。そしてふと見ると、小屋の戸が開きっぱなしになっていました。私は、物置なんかに今ごろ誰だろう、と思って、そっと、中をのぞいてみました。でも、人の気配はしませんでした。
 私は安心して、戸をさらに開けて中に入ろうとしました。薄暗かった小屋に日がさしました。古い本や、たんすや、額縁らしきものも見えました。そしてそれと同時に、すっかり存在を忘れていた健康器具と、その上においてあるなにか黒い「かたまり」が見えました。
 それは、彼でした。彼はその自転車を、まるで止まっているかのように、ゆっくり、ゆっくりと、こいでいました。小さくて黄色いそれに覆い被さるように乗っかって、ほんのかすかに、ういーんういーんという音をたてていました。厚着をしている黒い着物の内側で、足だけがぶるぶる震えながら動いていました。着物のすそが、風になびく程度にひらひらしていました。そして、そんな自転車の下には、誰が敷いたのか上品な色のマットが敷かれていました。その横には、埃にまみれたぶら下がり健康器が誰にも使われることなく放置されていました。
 私はその時、目の前にいるのが誰で今がいつなのか一瞬わからなくなって、口を開けたままその様子を見ていました。でも次の瞬間には、昔のことや今まで無視していた現在の彼の現実を全て思い出して、泣いていました。

 私は十八歳であの家を出て上京しました。盆と正月には帰省しています。そして最近やっとハタチになりました。
 彼は、はちじゅうです。


「ビックリハウス」1985年9月号(廃刊号の2つ前)に掲載されたものです。当時書いたものを一部加筆修正しました。

 連載という話がきて、書いてあるものを持ってきてくださいといわれて、アイデアリストともいえないひどいものを編集部に持っていた時、一番話が具体的に出来上がっていたのがこれだったように記憶しています。実はこの話は殆ど自分の思い出話なので、あまり客観的に書けませんでした。何度も直しを入れられて、でも結局向こうの希望通りにも、私の満足行くようにも仕上がらなかったと思います。
 小平市から渋谷にある編集部へ往復。交通費はもちろん自腹であることもあり、小銭を数えて暮らす貧乏人だった私にとって、「直してまた来てね」といわれることが(金銭的に)とてもつらかったのは事実なのですが、目の前で人に自分の原稿を読まれてダメだしされるってのはいい経験でした。
 ちなみに原稿料は、確か原稿用紙1枚あたり1000円です。それって安いのか高いのか、いまだにわかりませんけど。