Twitterと文脈のこと

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本が読めないのは継続中だが、図書館へは行き、雑な読書はしている。小説ではなく技術系の本や家事本などを借りて、内容の雑な把握をする。書いてあることをある程度知っているので、読めている気になってるんだと思う。

「文脈」は文章の前後のつながりのことだけれど、最近この言葉をテクノロジーの本やいろんな場面で見かける。最近私が借りている本は、理解にその「文脈」があまり重要じゃない本だ。よく、SNSで日本語が通じないといわれるケースも、語彙とかではなくて「文脈を読むことができない」ケースなんだろうと思う。国語の授業で散々やらされた「傍線部の主人公の気持ちを30字で述べなさい」ってやつも、その前後のつながりを読み取る能力を試されていたんだろうし。

「読む」と言うのは実は難しい。言葉の意味がわかっても文脈を読み取るのは頭を使うし、訓練がいる。結構な人がめんどくさいな、と思っているに違いない。本当は、文脈読まなくていいなら、これほど楽なことないんじゃないか?

Twitterはご存知の通り原則140字の短文を投稿するツールで、文脈を汲み取りにくい仕様だ。だからこそ脈絡もないことをいきなりつぶやけるし、他人の文脈を読み取るという面倒なことをしなくていい。

私はTwitterのサードパーティアプリであるEchofonを長年使っていたが、Echofonは機能がシンプルで、タイムラインで見えるのは私がフォローしている人のツイートだけだった。リツイートが流れてきたとしても、それはフォローしている人の人格という文脈として読み取れる。おすすめも、プロモーションも流れてこない。

そんな世界に閉じてしまうのはよく「エコーチェンバー」に陥りやすいと言われるし、実際それはそうなのだと思う。本当はいろんなものを無作為に見た方がいいのかもしれない。サードパーティ製アプリを使えず公式アプリを使うようになって、フォローしている人以外のツイートがどんどん流れてくる状況になり、昔自分で作った秩序が壊れ、最初はかなり戸惑った。なんでそれがおすすめされるのかわからないが、気にはなることが書いてある。ツリーやリプライを見て状況を把握しようとするのだが、ツリーは広告みたいになっていたり、リプライは不快な言葉が投げかけられていたりする。

もちろん以前からも検索したりトレンドを踏み、荒れた界隈を見ることはあった。ここ数年いろんなことがあってから、トレンドに上がっている言葉をタップしなくなり、検索もあまりしなくなっていたし、見たとしてもそれはあくまで覚悟の上での能動的なものだった。でもここにきて公式アプリに変えることでそのTwitterの無秩序にまた疲れ始めている。本来は読まなくていい文脈、でも、それだけで完結できず、文脈を読みたくなる仕様、でも掴みきれないそれ。

異なる文脈を持つ人たちが大声で噛み合わない議論をしている光景がある。気になってしまってつい深掘りし、解決せず気持ちがもやもやする。現実ならこの人たちも出会うこともないし、まともに議論なんてすることもないし、それを私が目にすることもない話だろうに。

なんなんだろうなこれ。
しんどい。


文脈、で思い出すのは、以前読んだ文庫本のことだ。その本はかなり特殊な作りになっていた。数ページごとに袋とじになっているのだが、その袋とじを開けない状態で、ある一つの小説が読める。そしてそれを読み終わったら、袋とじを開けてもう一回読める。そうするとそれは全く別の小説になる、というものだ。

袋とじを開けた瞬間に最初の小説は消えてしまう。なぜなら、袋とじを開けた状態では、最初の小説のパーツは全く別の文脈になるから。

残念ながら小説としてはそんなに面白いものとは思えなかったのだけど、袋とじを開けると一つの小説が消えてしまう、というのは興味深い構造だった。

いろんな情報を断片的に摂取して全体を見ないと、同じものでも全く異なる文脈が生まれることがあるというのは、あの実験的な小説だけの話ではないように思う。対象を丁寧に見ることをやめたら、もう、袋とじを開けて丁寧に対象を見つめている人たちと全く違う文脈になってる可能性があるし、袋とじを開けた人たちには開けていない人たちの見ているものを共有することなどできない。

人はみんな、いろんなコミュニティでそのコミュニティなりの複数の文脈を理解しそれを使い分けて生きているのだと思うけど、その、「袋とじを開けてない人」と「袋とじを開けた人」が持つ似ているようで異なる文脈同士ほど、共有が難しいものはないかもしれないなと思う。Twitterを見る限りだが。


そんなことを考えながら、今日も借りてきた本を雑に読んでいた。また小説を読めるようになる日は来るのだろうか。