鉛筆

 夏期講習に通い始めて6日目のある日、京ちゃんが急に風邪で休んだ。そういえば昨日京ちゃんは薄着だったし、冷房の前の席に座ったしなあ、と私はぼんやり考えていた。今日は京ちゃんが辞書を持ってくる日だったので、本当は少し困っていた。
 私が手持ちぶさたで単語の本を折り直していると、誰かが私の肩をがつんとつついた。驚いて顔を上げると、その人は、
「きゃーやっぱりムクちゃんじゃー」
と言って、大げさに私をゆさぶった。私はムクちゃんて聞いたとたん、なんとなく顔がひきつった。
 彼女は、私の中学時代の同級生の「原田さん」で、(原田さんはいつも「はらら、って呼んで」と言っていたが、私は原田さんと呼んでいた)割と誰にでも人なつっこく話しかける人だった。でも、話し方とかに独特なものがあって、私は何故かいつも彼女の前だと顔がこわばってうまく笑えなかった。彼女は、授業中いつもノートにまんがを描いていた。隣の席だった頃、私がそれを見ようとするたび、彼女は、きゃあ、と言ってノートを隠した。でも見えるように描いていたし、時々見せてくれた。
 彼女の描く「まんが」というのは、いたずら描きという感じではなく、それ専用のノートに表紙ページもつけた鉛筆描きのストーリーまんがだった。内容はたいてい宇宙ものだった。私が隣で退屈そうにしていたら、「ここにベタをぬって」と2Bの鉛筆を渡されたこともあった。彼女の筆入れには、3Hから4Bまでの鉛筆がそろっていた。「カケアミにはHがいいんだ」とかいう言葉に、私はよくわからないまま「へぇー」とうなずいていた。
 でも、彼女のまんがの登場人物は決まって、「むかって左ななめ前」を向いていた。どの場面でも、誰もが一方方向を向き、その状態で恋愛をしていた。

 「ムクちゃん、教育なのかあ」
 原田さんは、私の隣の席に座って言った。私は視線をなんとなくそらしてテキストをぱらぱらめくりながら、いちおうね、と言った。
 私は、彼女が私のことをムクちゃんと呼ぶのがすごく嫌だった。そんな名前で呼ぶのは彼女だけだった。ムクちゃんというのは、彼女しか知らない「ある人」−つまり、彼女の描いたまんがの登場人物の−愛称なのだ。私がその男の人に似ているなんていうのは、私はなんだか迷惑だった。
 原田さんは、私の横で一方的にいろんなことを話した。私は口元に笑う用意をしたままであいづちを打った。何度も何度もあいづちを打っていたら、ブザーがなって次の英語が始まった。私は、あ、辞書忘れちゃった、とかばんを見るふりをした。すると彼女は辞書で私をなぐるポーズをとった。私は一瞬、本当に驚いた。彼女はわはわは笑った。

 英語の授業が終わって、お昼になった。私は今日は学生食堂で絶対五目御飯を食べようと思っていた。行きがかり上、原田さんといっしょに食べることになった。彼女は歩きながらポケットからさいふを取り出して中をのぞきこんでいた。そして、
「うーん、これじゃあ五目御飯しか食えんなあー」
と言って、ちっ、と舌を打った。私はちょっと考えて、
「私も、お金ないから、そうする」
と原田さんの方を見た。彼女は、両手を口元で握り、
「うっ、感激。らりほぅー♪」
と言って、その場でとんとん、と跳ねた。
 学生食堂「るーえ」は、毎日先着百名に店名入りの鉛筆を配っていた。そんなあまり役にたたないHBの鉛筆をもらってもうれしくなかったけれど、鉛筆分くらいしか席がないから、ただの印としてみんな受け取っているらしかった。
 私達も鉛筆を一本ずつ受け取り、五目御飯を持って席についた。京ちゃんだったらいつも、いらない、と言って私に渡すので、私はもうこの鉛筆を十本以上もらっていることになる。私が鉛筆にうんざりしながら、スプーンで五目御飯を食べていると、横にいた原田さんが、席を立ってどこかへ行った。水を持ってきてくれるんだったら嬉しいけど、でも違うんだろうなあ、と思いながら、私は食べ続けていた。五目御飯は半分食べると飽き飽きする。
 そのうち原田さんが、にこにこしながら戻ってきた。手を見ると、やっぱりコップは持ってきていなかった。そしてその代わりに、さっきここでもらった鉛筆を、四本持っていた。両手に、二本ずつ握り締めていた。
 彼女は、
「もらっちゃったよー、わあい」
と言って、その場でまた、とんとん、と跳ねた。そして鉛筆をスカートのポケットに入れて座った。ポケットからは鉛筆が半分以上見えていた。私はもう食べられなかったので、席を離れて水を取りに行った。
 その後、彼女はすごい勢いで五目御飯を食べながら、志望校のこと、彼女の両親が理解がないということ、そして、まだ趣味でまんがを描いていて、この学生食堂の鉛筆はその「主線入れ」に最適だということを話してくれた。食べおわった後、彼女はさいふからなにか薬を取り出して飲み始めた。風邪?と聞くと、
「偉いでしょ。これをもらうために無理矢理来たんじゃい」
と、ポケットの鉛筆をたたいた。私はやっぱりうまく笑えなくて、でも笑った。
 私は、原田さんに自分の鉛筆を渡して、あと十本あげるから、まんが完成したら見せてね、と言った。原田さんは、
「ムクちゃん、好きじゃあ」
と、私に抱きついた。何だか、汗ばんでいた。

 午後、原田さんは帰った。私はその日、一方方向を向いて抱きしめあう花畑のことを考えていた。


 これはビックリハウスが廃刊する連絡が来ていない頃に、その次の連載分の原稿として書いていたものと記憶しています。
 それともただのボツ作品かな? 一応、「白いスカート」と連作です(恥)。

 編集部から連絡がなかなかなくて「ははーん」と思い始めた頃、上村さんからようやく電話があり「びっくりするかもしれませんが、ビックリハウスがなくなることになりました」ということを告げられたような記憶があります。言い方忘れましたが内容はそんなふう。
 あまり驚きもしないで「はーそうですかー」って聞いてました。
 次回の原稿は、400字詰めで最大「3枚」っていわれ、この作品は日の目を見ることはなかったわけです。