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イベントストーリー

NEWSに恋して」というアプリがある。去年リリースされて何度か挑戦して意味がよくわからずできないまま1年経ち、こういうことができないのは老化と、やっと心の障壁を乗り越え今年の2月くらいからできるようになった。唯一続いていたゲーム「どうぶつの森」をやる感覚で生活パターンに組み込んだので、現在も順調に続いている。できるようになったよ、と上の子に報告したら、「誰もそんなこと期待してない」と言われた。そうか。

知らない方のために説明すると、ゲームの種類としては「アドベンチャーゲーム」。メンバーを選び、提供される恋愛シナリオを読むのが目的のシンプルなゲームだ。条件分岐もほとんどない。でも読み進めるためにはファッションチェックという名前で何処かの誰かと所持品の得点を競ったり、有料のアイテムを買ったりしないといけない。読み終わったり条件が揃えばアバターをオシャレさせ強くするアイテム、もしくは、NEWS のメンバーのボイスや写真がプレゼントされたりする。課金すれば我慢を強いられず好き放題だってのは他のゲームと同様。

このアプリでは「本編」というメンバーそれぞれの長編ストーリーと、「イベントストーリー」という期間限定の短編ストーリーが提供される。イベントストーリーはNEWSメンバーが先輩だったり同僚だったり、お見合い相手だったりルームシェアの相手だったり、一緒に遊園地の戦隊ヒーローやってたり、いろんなパターンでの恋愛が始まり成就する。今年から始めた範囲でも、よくこんなに恋愛話のパターンが尽きないなと感心する。

正直やっぱり若い人向けのアプリだから、恋愛ストーリーを楽しむというよりは、どうぶつの森と同じようなモチベーションでやっているのは否めない。つまり、必要なことをやってミッションをクリアしコンプリートする、という感覚だ。まあ、ストーリーを読んでも、なんでこの主人公女子が好きになってもらえるのか全然ピンとこなかったり、ツボが違うなと思うことも多いけれど、違和感も含め楽しんでいる。こんなわかりやすい妄想がオフィシャルに供給されているというのがそもそも面白いし、それぞれのパブリックイメージから外れず大多数のファンが喜ぶストーリーを、ネタ切れすることなく書いているライターさんは凄いなと思う。読んだ範囲では、主人公が論理的な話し方をするところに高評価を与えているという点で、お見合い編呉服屋加藤君が良かった。あと、知的マニアック変人な雰囲気の学芸員加藤君と、ただ待ってる元彼で花屋の増田君も良かった。本編は加藤君を数回やってコンプリートしたので、今は小山君をやっているが、小山君の話は全体に優しくていいね。

NEWSに恋して」のあるあるなのかもしれないが、手越君のストーリーは、主人公の女子が手越君と出会った時にその顔の綺麗さに驚きがちだ。私はそんなストーリーを読むたびに、あることを思い出す。

遡ること7年前。チャンカパーナの初回限定盤4枚組セットに封入されていた応募券で当選した人が参加できる「集まれ!!!!チャンカパーナ」というイベントがあった。私は運良く大阪のとある回に当選した。未就学児 1人同行可だったので、当時4歳の下の子を盾にするように連れて行った。私は6人時代を後追いでしか知らないバリバリの新規ファンだったこともあり、右も左もわからない中での恐る恐るの参加だった。とにかく、私ごときがはしゃいではいけないと思っていた。

今から考えると奇跡のイベントだ。4人で再出発をしたばかりの彼らは、イベントの最後に参加者全員と握手をした。私は4歳児を左手で抱き抱えて列に並び、空いている右手で握手をさせてもらった。増田君、加藤君、小山君、手越君の順だ。

今でもはっきり覚えている。増田君がイメージよりかなり大きくて驚いたこと。加藤君が子どもに慣れてないなと思ったこと。小山君の番になった時に4歳児を片手で抱えきれなくなりあたふたしてしまい、小山君とちゃんと目を合わせた握手ができなかったこと。そしてラスト、手越君が腰を低くして丁寧に握手してくれたこと。

その時、私は手越君の顔をまじまじと至近距離で見た。そして思ったのだった。

「世の中に、こんな顔をした人がいるんだなあ」

初めて近づいて肉眼で見た手越君の顔は、顔立ちの彫りの深さや整い方が間近で見るにはオーバースペックすぎて、脳が処理できない。

10メートルくらい離れて見るのにちょうどいい顔立ちっていうのがあるんだなあ。」

そんなことを思ったのは後にも先にも手越君だけなのだった。

NEWSに恋して」のイベントストーリーで、手越君と出会った女子が顔立ちの綺麗さに驚くくだりを見る度、「そうだよな、驚くのはよくわかる」と思うし、逆にそのくだりがないストーリーにはリアリティを感じない。君はなんでそんな簡単にあの顔立ちを日常生活で受け入れられるのだ?

ところで、せっかくなので集まれ!!!!チャンカパーナでの件をもう少し書いておく。

私はあの時、加藤君にファンであることをどうしても伝えたいと思った。男性アイドルに強い思い入れを持つ経験が人生で初めてだったので、こんな私でも何か一言くらい声をかけてもいいのでは、と思ったのだ。

他の3人は4歳児の頭を躊躇することなく撫でてくれたけど、加藤君は少し違った。私が抱き抱えていた4歳児は手にイベント参加券をずっと持っていたのだが、その4 歳児の両手を取り「持っててくれてるの〜」と言って、手遊びをするように手を23度上下させた。

その後、私は加藤君と握手する番となり、その時与えられた時間で唯一噛まずに言えそうだった言葉を発した。それは、

「加藤さん、さいこーっす」

だった。そう、それが7年前の私の精一杯ですよ。

加藤君はそれに対して若干の硬さの残る表情で「本当ですか。ありがとうございます」と言ってくれた。あとで検索したところ、一般に握手会定番と言われる台詞なんですってね。でも頂けただけで嬉しいです。

7年分の思い入れが増した今の私なら4人になんと言えるかな。結局、さいこーっす、しか言えないかな。

私は楽曲派

私の環境での話だけど、同世代のジャニーズファン(世間的にはジャニオタ)を名乗る人にほとんど会ったことがない。もちろん全くいなかったわけじゃない。下の子の保育園に嵐の相葉君のファンの保育士さんがいて、立ち話をしたことがある。数年前に職場の同じ建物に入っている会社の経理の人が櫻井君のファンで、職場の机にいろいろ飾っているという話を聞いたことがある。昔の職場の同期入社の女性が、退職後翼くんを追いかけて各所遠征していたと聞いた。熱量を感じたのはその3人くらいで、厳密には最後の人しか同世代じゃない。つまり、たった1人だ。あと、地元にいる実妹は関ジャニ∞と大倉君のファンでたまにファンクラブにも入っていたはずだが、割とあっさりしてるので除外。話は通じるんだけど。

以前の私がそうだったように、多くの人はいろんなジャンルの一つとして捉えている程度で、若いジャニーズは区別がつかないということをどことなく誇らしげに語る。時事ネタ、国際問題、歴史、漢字などとは違い、無知である方が知的な印象を与えるジャンルなんだろう。多分。私の家族(夫)などは心底毛嫌いしていて、私がNEWSにはまった時のショックは凄かったらしい。「そんな人だと思わなかった」と嫌悪感をはっきり伝えられ、最初のコンサートに強行した後は大げさでなく2週間不機嫌だった。理不尽すぎて、何もそこまでと思うし、差別的なものを感じる。

さて本題。

以前仕事で通っていた場所で、私はさまざまな職種の40〜50代女性が集っているグループに混ぜてもらい、昼食を取っていた。そこで私はいつしか「ジャニーズに詳しい人」という立ち位置になった。こんな、異様に声とテンションの低いメガネをかけた中年女性がジャニーズのコンサートに行っているのは意外に思われるようなので、私も彼女たちが納得しやすいように「娘たちと行っている」と説明した。「着席ブロックとかあって、家族で行く人多いですよ」などというと「チケットを取るのは大変ですか」などの定番の質問を受ける。本当に興味があるのか、話をつなぐためだけなのかわからない。でもせっかく聞かれたので、私はまるでよく知っている人のように解説をする。自分はジャニオタではなくてあくまでNEWSのファンでしかないとエクスキューズを挟みつつ、ジャニーズファン界隈の各種ルールや特別な用語、濃いファンの振る舞いについてなども教えていた。私が新鮮に感じて見てきたものごとは、そういう場の話題としては鉄板だった。

ある時、「私は昔から男女問わずアイドルの曲を聴くのが好きで、概ね楽曲派だった」というようなことを言ってみた事があった。それまでも仄めかしてはいたのだけれど誰もピンときていないのは感じていた。でもその日は「ジャニーズが好きなのに楽曲派というのは意外です」という直球の反応があったので、少しちゃんと説明してみようと思った。

ジャニーズの曲も結構面白いんですよ。まず基本的にある程度は売れることが見込めるからなのか、楽曲はしっかりしたものが集まるんです(ウーン、という顔をされる)まあ、そういう曲調が好きな人にとっては、ですが。あと、グループには歌のうまい子もそうでもない子もいろいろいますけど、基本的にファンサービスもあるのか全員が順番に歌う事が多いんですよ。そういうのってアイドル以外のジャンルにはあまりないじゃないですか。(たしかに、という反応)グループアイドルの曲ってそういう特有の面白さがあって。ただ、人数が多すぎると全員のユニゾンが増えて声を楽しむ面白さは減るんですが。

一番最初にNEWSのアルバムを聴いた時は、その声質のばらつきと、ハモリやユニゾンの声の組み合わせで聞こえてくる音の感じが全然違うのが面白くて興味を持ったんですよ。ファンサイトでパート割りを調べながら、素人ながら音声解析ソフトで波形を眺めてみてました。手越君(彼のことはみんなだいたい知っている)なんか倍音がよく見えて、(ここで倍音を知らない人に知っている人が説明してくれた)あ、手越君は歌える子なんですよ。声が高くて音程安定してて声量もあって、ハモリも正確で、NEWSの歌の要だと思ってます。(意外!という反応をうける)手越君と増田君ていう子が歌える子で、後の2人も声に特徴があっておもしろいんですよ。

その時説明できたのはこの程度だろうか。コヤシゲの声の魅力とか最近の楽曲の面白さとか、相手の知識を超えてあまりにも鼻息荒く語りすぎると説得力が無くなるのは経験上知っている。私の思うグループアイドルの曲の面白さは「個の声質もひとつの素材として仕上げられた音楽」であることを控えめにでも伝えたられたかなと思う。そういう聴き方もあるんだなと。もちろんアイドルを好きなポイントは人それぞれで、ダンスが揃っているのを見るのが好きな人にとっては、NEWSは全く向いていない。楽しみ方なんて人それぞれでいいと思うし、あくまで私個人の件。

以上、スカした感じで普段すごしていることがわかる話。楽曲派なんですよ〜なんて言いつつ、NEWSに関しては歌わない番組も手当たり次第録画してるし、雑誌もまあまあ買っていて8年分くらい溜まり続けている。本棚には、加藤さんの文章が載っている本がずらっと揃っている。コンサートの想い出のグッズやうちわも大切に保管してるし、ツイッターでしょっちゅう検索しては、常に彼らと彼らのファンの幸せを願っている。それは普通、楽曲派とは言わない。でも、楽曲派の次のステージに行けたのは貴重な経験だった。素直に、よかったなと思っている。

といっても、間違いなく今後も死ぬまでずっと楽曲派を名乗ってると思う。それが私。


ファン

去年の暮れに小山君がエブリィを降板することが発表された時は喪失感があった。前も書いたように私は小山君のファンとは言えないのだけれど、選挙特番のような硬い番組に溶け込んでいる様子を録画で確認してニコニコしていたことなどを、寂しい気持ちで思い返していた。

去年、ぼんやり検索するとNEWSの悪口と小馬鹿にしたようなツイートばかりを拾うようになってしまった時期、私は対策として、キーワード検索をやめ、「人の悪口を言わない前向きで理性的な小山担」と感じた人たちのツイートを選んで読んでいた。

あの頃私は一連の出来事に納得できていなかったのだと思う。いろんな立場の人が軽い理解で「自業自得」程度のことをさらっと書いているのも見たくなかったし、ショッキングなネット記事の見出しをリツイートするファンも見たくなかった。有名ジャニオタと言われるカテゴリの人が、彼らの歌にからめたタイトルで、冷静に分析する風に彼らがいかに良くないかをブログに書いていたりするのを目にした時は、最悪なものを踏んだと思った。

もやもやとしていた。

彼らが好きすぎるためだろうか、私自身が責められているような気持ちでいた。遊びや職場を含め過去多くの飲み会に顔を出して色んな人を見て、全ては状況によると思っているところもあったので、厳しすぎる言葉や馬鹿にする言葉を受け入れられなかった。実際私も制止するほどの悪質な場面にでくわしたことがなかったし、それと同時に、どんな飲み会でも常に私じゃない誰かが、場を盛り上げようと頑張ってくれていたことなどを自分に置き換えて思っていた。いくらそんなことを感じたとしても、揃えられた記号としてはこうならざるを得ないことも理解していた。揃えられてしまったこと自体を重大な過失と幻滅してファンが非難することを、仕方がないと思うしかないのかもしれない。

初めてNEWSのライブへ行った時に、私は客席の女の子たちが細部にまで気を使い着飾っているのが新鮮だった。それは屋外のライブで自分の席が空に相当近い場所だったということもあるけれど、遠くにいる4人のNEWSと、復活を心から喜ぶ周りにいる大勢の可愛い人たちに囲まれて幸福な気持ちでいた。それはとても綺麗な光景だった。

それから何度もコンサートに足を運んできたが、いつも客席の子達はとびきりに着飾っていた。でもそうやって現場では細部まで完璧に見た目を仕上げている(かもしれない)人達が、ネットの中では全く身なりにも気を使う様子もなく、特定の人へ汚い言葉を吐き続けている。

汚いものを汚いと認識した上で観察することは嫌いじゃない。人間の暗部に興味を持ってわざわざ見に行くことはある。でも、日々の汚れに塗れた時間から離れて、綺麗な小石を集めたいような気持ちの時には、それは目にしたくないものだった。

私は罵声をくぐるように小山君のファンたちの様子を見に行った。彼女たちには、理屈ではない「慶ちゃん大好き」というパワーがあった。時折辛い気持ちが見え隠れすることはあっても、ポジティブな方向へ振り切ろうとしているようだった。そういう人達の、いいね、や、リツイートされている他のツイートを辿ると、殆どの人が前向きで愛に溢れている世界が見えた。

私には資質がないので、ストレートに愛を語っているツイートはいつもつい外野のような視線で眺めてしまう。私はその輪に入れない。関心、テンション、嗜好、何もかも傾向が違っていて、私が無理をして言っても全部嘘になる。でも、辛い状況であってもきちんと身だしなみに気を使い、できるだけ着飾り、全力で愛に溢れるうちわを掲げる彼女たちを眺めていたいと思った。とても綺麗だったから。

しばらく個人でのテレビ出演が無かった小山君が、先日久しぶりにパネラーとして単独で特番に出演していた。私はもしかしたら言われているかもしれない悪口を素通りし、彼女たちの歓喜のうちわだけを見に行った。私は小山君のファンではないけれど、多分小山君のファンのファンだ。

誰か

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いつものことだが、思い出話をする。

大学時代、私はよく公開収録に申し込んでいた。交通費だけで楽しめる、都会近郊に住む暇な貧乏人の娯楽の1つだった。ほとんど当たらない人気番組もあれば、並べば普通に観覧できるものもあった。

よく行っていたのは生放送のバラエティだったけど、何回かに一回は収録の番組もあり、その時は収録後に伝えられた放映予定日を心待ちにした。自分が客席に写っているかどうかなども気にしながら、記憶と照らし合わせ番組を見る。でもたいてい、自分が公開収録で見てきたものとは違うものなのだった。

収録の時に面白かったからもう一回見たいと思っていたシーンが全てカットされている程度のことはたいしたことではなくて、あれ、こんな流れだったかな、これは別のことを受けてのコメントで、みんなこんなに笑っていなかったよなと思ったりすることもあった。確認する術はない。でも、仕上がったものには私の見た収録が一応は詰め込まれているのに、ある種の架空の世界なのだった。映像として共有されるのはこの番組だけで、私があそこで見たものは消える。あの場にいた誰かの記憶の中に残っているかもしれない。でももう私の中でも輪郭線がぼんやりとしている。放送された映像で記憶が上書きされてしまうような。

あの時素人大学生の私にわかったのは、私が目にしていた光景は素材で、そこにいた芸能人は映像素材を提供する人たちでしかないということなのだった。それまでほとんど気にしたことのなかった、映像を編集する「誰か」の大きさに気付いたのもその時だ。

その「誰か」を意識してテレビを見ていると、収録に行ったわけでなくても、ここは別のシーンで笑っているものを差し込んでいるのかなとか、ここの順番を入れ替えているのかなと思うようになる。実際、全く同じ笑っているシーンが2 度差し込まれたり、いるはずの人がいなかったりといった雑な編集も度々あって、まあ、ここは、そうだな、たしかにこうした方が面白いかもなと思ったりしていた。

その頃は80年代で、自分で映像を編集したり、ましてや加工するというイメージなど全く持てないアナログな時代だった。貧乏学生だった私はビデオデッキすら持っておらず、自分が見に行っていたそれらの番組を録画することすらできなかった。

就職してから私は仕事で本格的にデジタルの世界に接した。「リコンフィギュアード・アイ」という本を読んで、写真がますます信用できなくなるこれからのデジタル時代のことを思ったのもその頃だ。若干の気持ちのざわつきを覚えても、当時は自分の都合のいい未来しか思い描いておらず、楽観的だったような気がする。

今、私が生きているこの時間は確実に、あの頃の技術の上に積み重ねられた未来だということはわかっている。でももし、連続した記憶で間を埋めることができなかったら、私はこんな時代を信じられるんだろうか。手元にはいつもデジタルで撮像できて、加工できて、世界へ発信できる小さな道具がある。昔はごく一部のプロフェッショナルが仕事でやっていた編集や加工は、今や誰でも簡単にできる。私を含む誰もが映像素材になり得て、それを使って編集された「架空の世界」が手軽に仕上がる。そして、それを誰もがすぐさま全世界にバラまける。

そこら中にあふれている膨大な数の映像の一つ一つは姿の見えない「誰か」が編集した結果だ。切り捨てられた部分の内容も、それを捨てた理由も、与えられたデジタルデータからは復元できないが、確実なのは、それをそう見せたい誰かがそこにいる、ということ。昔公開収録の時に認識したのと同じ、誰か、ではあるけれど、あの時よりもっと得体の知れない、誰か、だ。

本人が加工して見せたいものを発信している鎧のような架空の映像だけではなく、隠し撮られて、何らかの思惑のもと切り取られたようなものも実際存在する。そういう類のデータを目にしたり、それを嬉々として拡散して盛り上がっている様子を目の当たりにすると、私はあの頃楽観的に思い描いていた未来ではない、誰かの自己顕示欲や他者への悪意で技術がどろどろにされている未来に来ているんだなと思う。

いつか

私は下の子の学童保育が終わる時間に家に帰れるように仕事をしている。バスの本数が少なく絶対に乗り遅れてはいけない緊張感の中、なんとか仕事を定時に終わらせ、早足で乗り込んで座ると、しばらく自分だけの時間ができる。数年前、私はそのバスの中でよく「小山 アナウンサー」でツイート検索をしていた。ここは関西で、4時代のエブリィの放送がない。だから小山君のキャスター姿を見る機会はほぼなかったのだけれど、ツイッターで「小山君アナウンサーみたい」と関東の一般視聴者が呟いているのを確認するのが、金曜日以外の日課になっていた。

私はNEWSファンで加藤ファンではあるけれど、それ以外のメンバーの単独の仕事は完全には追いかけていないかもしれない。ただ、小山君のキャスター仕事は先に述べたように関西ではほぼ見れないので、NEWSで知っている小山君とは別人のようなキリッとした姿を見たくて、関西放映する選挙特番などは必ず録画していた。彼の、それこそアナウンサーみたいにも聞こえる原稿読み技術にはいつも感心していた。手話の自然さも好きで、エブリィで手話を使ったことを察知する度「小山 手話」で検索して「小山君手話できるんだ」と誰かが感心しているのを見つけて和んでいた。あんなにチャラい小山君が、「アナウンス」や「手話」といった技術面で褒められているのは「努力が実を結ぶ」成果を見たような温かい気持ちになって、変な話ではあるが、仕事に疲れた帰り道の癒しになった。だいたい毎日2件くらいは呟かれていて、それを見ては「今日も小山君はアナウンサーみたいだったのか」と思い、呟きのない日は、「今日はアナウンサーみたいじゃなかったのかよ」と残念に思ったりしていた。

彼にアンチが多いのは知っていた。私がNEWSに興味を持ち始めた2011年10月、こやしげ、特に小山君についてはアンチの書いている悪口ばかりを目にした。だから最初、ツイッターで見かける「小山担」と言う人たちがその彼のどこが好きなんだろうと不思議に思ったほどだ。

時間をかけて過去のいろんな映像やライブDVDを見たり、加藤君に唐突に興味が湧いて手当たり次第K.K.Kityにまで遡って映像を見ていたりするうち、小山君という人がだんだん掴めたのだと思う。私が捉えた小山君像は「多少空気を読めないミスはあっても、常に場を盛りあげる役割を背負って頑張ってきた子」であり、「風見鶏的な面もあるけど、本質的にとても優しい子」であるのだろうと思った。その、あくまで私個人が感じた人物像でファンやアンチの主張をみると、まあまあつじつまが合っていた。

私などのように鉄壁の人見知りで対人に警戒心しかない人間からすると、この人は何かの対人センサが壊れてるんじゃないかと思うこともあった。私の友人に彼のようなタイプがいたら、自分が絶対できないことをいとも簡単にやってのけるからきっと憧れたかもなあ、などど思う。だから加藤君が小山小山言っているのもわかる気がした。私はいつしか「加藤君目線の小山君」で捉えるようになった気もする。そうすると彼の儚ささえも見えてくるよね。

小山君に関しては、トーキョーライブや24時間テレビなどの生放送対応の安定感や、変ラボなどで見せる素人とのコミュニケーション能力の高さなどもすごいなと思っていた。でも、ある番組で指原さんが小山君に「真面目売りは危険!」と言っていたように、私も変に真面目さをアピールする各番組には違和感があった。小山君の本当に評価すべきところはチャラくてパリピなのにきっちりキャスター仕事を仕上げているところなのでは?と思っていたから。

私の癒しになっていた「小山 アナウンサー」検索は、ある頃から常に悪口を拾うようになった。NEWSの検索に限らないけれどツイッター自体荒れた場所に変貌していき、流出だのなんだの愚痴アカだのなんだの、殺伐としていた。事情通が湧きフォロワーが増え、悪口を言う集団が形成され、勢力が強まり暴走を始める。
私は、検索をやめてしまった。小山君について何か検索するときは、"小山くん"と、敬称をつけるようにしたが、それでも完全に悪口を排除するのが難しくなったからだった。
そして、若干沈静化したように思えた頃、今年の例の音声の件がおこる。

彼の活動自粛は、相手が未成年であったこと自体ではなく、年齢を偽って伝えられ未成年であることを知らなかったとしても「飲酒コールをしていたことが適切ではなかった」というものであり、それは一貫している。社会人として未熟であった、というのも、一般的にアルコールハラスメントと捉えられるようなコールをしたことに対してだ。

ただ単純な話でないのは、例の件はハラスメントをされた側の告発として明るみになったわけではなく、誰かが録音し、それがネットに一瞬アップされ、すぐ消されたにもかかわらず別の人たちが半笑いで拡散し、疑惑の段階でネットニュースになり、後に週刊誌が未成年本人に突撃して飲酒を認めさせ記事にしたもの(と、様子を眺めていた私は認識している)。この、「受けた側が自ら告発したわけでないハラスメント」そしていわばチャラいコール飲みの音声であることも、人によって、世代によって、受け取り方が様々になる要因なのだと思う。

「ハラスメントとされている行為をするのは報道キャスターとしてどうなのか」と問題視されるのはわかる。同様な出来事で嫌な思いをしたことのある人や、アルハラ問題に取り込んでいる人たち、厳しい倫理観を持つ人たちなどが報道番組復帰に否定的になるのもわかる。
だが、ツイッターで見かけるのは「犯罪者」といった理解力に欠けた暴力的な罵声だったり「若い女と飲むようなクズはキャスター失格」というような極端なものだったり、あいつ気に入らなかったから徹底的にやろうぜw、みたいなものや、事務所全体に絡む芸能批判だったりする。一方の擁護の声はNEWSの「慶ちゃん」のファンしか見えてこない。

私は彼がメインキャスターをしていた番組の放映地域に住んでいないから完全な外野だけれど、単に毎日番組を見ていた一般視聴者で、私みたいになんとなく小山君の技術面が好きで出演自粛を残念に思っている人もいるんじゃないだろうか。そんな声はツイッターから悪口を踏まず拾いようがないが。もし逆にキャスターが小山君じゃなくなって番組が良くなったと思う人が多いならメインキャスター復帰は難しいだろうし、それは、番組を見ていなかった、そして今も見ていない私にはわからない。
過去、メインキャスター就任をスキャンダルで降板した人も数名思い浮かぶ。世の中の事件にコメントを付けたりするキャスターは仕事ができる云々とは別に、染みひとつない清廉性を求められるのかもしれない。

嫌だなあ、と思う。
ゴシップなんて昔は一部の週刊誌に限られたものだったのに、その文法がSNSに蔓延してしまった。今回の件に限らず、文脈を無視して盗み撮りして切り取られた一瞬が拡散され、それに各々の発想で補完が創作され、さらに勝手に発信される。このご時世、ほとんどの初対面の人を記者だと思うほど警戒して接していかないと、完璧に清廉なイメージは保てないように思う。そう考えると私の思う小山君の持ち味の1つである人に対する垣根の低さは常にリスクを伴う。嫌な時代だけど、そういう時代になってしまったからには受け入れて対応して生きていくしかない。対応できないなら生き残れない。

もし彼がキャスターに復帰することを今の世論が許さないと判断されてしまったら、残念だけどそれも時代だと思うしかないのかもしれない。人生や仕事って大概しんどくて、理不尽と思うようなことも起きてしまうのが常で。
でもいつか、沈黙期間を経たけど衰えていない彼の技術が見たいし、それを生かせる現場を与えられる日が来て欲しいと思う。私程度の関心度で惜しいと思うんだから、もっとそう思っている人が彼に近いところでいるんだろうけど。

ずっと好きでいること ー 夜よ踊れ

3つ書きたいことがあったのに、そのうち目の手術の件を仕上げて満足し、ほかの2件を保留したまま月日が過ぎてしまった。

書きたいことが増えて、その2件とどちらを優先したら良いのかもうわからない。

とりあえず書いておこうかなと思うのは、しばらく前に娘(19歳)に言われた言葉。

「ママって、1つのことずっと好きだよね。そこは信頼できる」

あら、どうもありがとう。と思っていいものかどうかわからなかったけど、褒め言葉だよ、とわざわざいうので素直に受け取った。

おそらくそれはNEWSの載ってる雑誌を買ったか加藤さん単独の何かを見せびらかしたかの時だと思う。ここにはしばらく書いてないけど、相変わらず私はNEWSを聴いているし、関連した品を可能な範囲で購入しているし、加藤さんの出演するビビットは毎週録画して全部残している。見ているかというとそうでもないが。

ジャニーズアイドル界隈に詳しくなっていろいろレンタルして聴いても、結局NEWS以外に心動かされることはなかった。こやしげテゴマスの声質や歌唱力バランスや歌割りなど、私が面白いと思うのはジャニーズ共通のものではなくNEWS独自のものなのかもしれない。

実はエプコティアツアーはちょっとした事故で行けなかった。1度も行けなかったのは聴くようになってから初めてで、仕方ないからDVDを極力ネタバレなしで見たい、と、最近は情報収集を控えていた。

情報収集をやめても、私がブログに書かなくても、私が呟かなくても、人気者のNEWS はそこにいたからね。

でも、先月嫌なことが起こった。誰かを応援することにある種の危うさがあることは経験上分かっていたけれど、それが現実になってしまったということだ。ただ、今回の件はTwitterで最初から見ていて、発生からの過程と、その構造自体が恐ろしくてしかたなかった。こんなことでこうなってしまうなら、もう、どこにも安心なんてないじゃないか。

ネットで罵倒する人たち、説教する人たち、嘲笑する人たちを静観しながら、彼らが積み上げた成果がこれで上書きされるのは切ないなあ、と、陰鬱とする。とりあえず、見るべきでない中傷が見えないように対策をとる。恐る恐るファンの様子を伺う。それを見ながらさらに鬱々とする。

私が好きな彼らはこの子達が罵る人と同じなのだろうか。おそらく摂取し消化して作り出したイメージは、私という人間の発想の枠組みで解釈した私の頭にだけあるもの。それが今回の件で崩壊してしまったのならまた違った感情を抱き、これだけ怒れるんだろうか。いや多分私は今回の件を、許す許さない、呆れる呆れない、とかそういう次元で捉える年齢はとっくに過ぎている。そんな感情を持てるほど青臭くいられない。

人の呟きばかり観察していた私も、何か書くか、とこんな内容をメモした。

"君たち、せっかくいいところなのに、ちょっとポンコツだね。でも、君たちがあまりにも頑張り続けたものだから、ポンコツさに惹かれたのがきっかけだったことをすっかり忘れてたな。"

でも、読み直して書き直す。

"いろんな人のいろんな意見や罵りを読んだ。私はずっと頑張ってきたいい大人に説教めいたことを言えるほどに立派じゃないんだよなあ。もっとちゃんとしないとなあ。今日のハンバーグもボロボロだよ。 "

体がふわふわするような経験のない不調が続いて、ああ、これが噂の更年期障害なのかな、などと医者に行った。少し控えていたものを取り戻すかのように、NEWS関連の雑誌を買い、本を買い、書いてあるものを隅々まで読んだ。散歩を名目に近所の神社に行っては「NEWSが無くなりませんように」とお祈りをした。芸能界という特殊な世界でいろんなプロジェクトに関わっている彼らが負担しなくてはならない損失を最小にしてそれ自体を継続させていってくれること、周りにいるプロたちが最善のサポートをしてくれること、そして、彼らの今回の出来事に便乗して一儲けしようという大人や、バズる快楽に溺れる下品な有象無象が少し静かにしてくれますように、なんて、神社に行って祈るしかないじゃないか。

幸い無事発売されたBLUEは好きな曲だった。特に、通常盤に収録されていた「夜よ踊れ」は、いつも歌割のことばかり気にしている素人の私の想像など軽々と超えてきた。年齢とともに、何を聴いても過去曲をとの類似を探すAIのようになっている自分にうんざりだったのだけれど、「夜よ踊れ」は聴き終わって軽いショックを受け呆然とし、何度も聴いて歌割りを確認していた。

4人になってリリースした当初は声の組み合わせのバリエーションが少ないとか、歌割りのパターンが見えてしまう物足りなさが無いわけではなかったけれど、ここ数年間はいろんな歌割りに挑戦したり歌い方を変えたりしているのか、声が足りないなどとは思わなくなっていた。

そして「夜よ踊れ」は、安定しつつあったパターンを破壊して、それぞれの声という武器を余すことなく使い「美と狂気を感じる曲」に仕上げられていた。何度も聴いた。聴くたびに発見があって飽きることがなかった。

そうか、彼らの歌はこういう域に来ているんだね。

面白いなあ。素晴らしいなあ。

薄く氷が張っているその下にまだピラニアに似た気味の悪い魚が見えるような不安は残っているが、私自身に生じた体の不調はいつしか消えていた。

「ママって、1つのことずっと好きだよね。そこは信頼できる」

そうだね。多分ずっと好きでいると思うよ。

グリーンマイル

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11月の上旬、私はずっと楽しみにしていた「グリーンマイル」の舞台を観ることができた。京都劇場は京都駅に隣接している。そのアクセスの良さに助けられた。私が当たったのは平日の昼の部だったので、特急に乗れば下の子の帰宅に間に合う時間に帰ることができる。日常を壊さずにシレッと非日常の特別なイベントを組み込めるなんて素晴らしいじゃないか。

私は映画は見ておらず、舞台が決まってから小学館文庫上下巻の原作を読んだ。読んだ頃は、目の状態は良くはなかったけれど、まだ両目で読めていた。血生臭く重たい話だったが、ファンタジー要素は読み手に対する救いになっていたし、何より展開が気になりすぎて、目の調子の悪さを忘れて読み耽った。
刊行された時のように6分冊で読むのもいいのだろうけど、私の買った小学館文庫はAmazonのレビューにもあったが表紙のイラストが素敵なのだった。読み終わって再度眺めると、ほとんど辛い人生の記憶を一片の楽しかった思い出で埋めることができるような...幻想を抱く。
私があらかじめ原作を読んだのは、最近自分のリアルタイムでの各種処理能力に全く自信が無いからだった。目だけではなくて脳も、集中力という面でも。原作を読んでおけば処理能力を予備知識で補える。横の席に座る娘が理解できなかったところを解説するくらいの余裕を持って観劇できるはず。私が気にかければ良いのは「どう舞台化するのか」という一点だから。
でも、そんな心配は杞憂に終わった。始まる前は横の席で「どんな話〜?シゲの舞台だってことしか知らない〜」と、同行した友だちに無知自慢をしていた娘も、見終わったあと「めっちゃよかった、感動した、泣いた」と言っていたので理解していたと信じたい。
実際とてもわかりやすい舞台だった。舞台化するために絞り込まれたエピソードは無駄がなく、模範解答のようだった。そしてわかりやすさの一つの要因はコーフィーのキャスティングで、把瑠都の佇まいは善人以外の何者でもなかった。言葉やエピソードでの説明が無くても立ち姿と声の響きで彼の心の美しさが伝わってくる。
加藤さんも体を大きく作り上げ、看守を演じきっていた。過剰に芸達者すぎない嫌味のない演技も真面目で誠実な看守らしさとなっていたし、ともすれば延々と説明している人になってしまう長台詞も、一切違和感を覚えることなくすんなりと頭に入ってきた。
他の方々の演技も素晴らしく、それぞれの個性が粒立っていた。原作を読んでどう実現するんだろうと思っていた美術的な部分も、さすがと思うところが多かった。わかりやすいけれど原作をなぞっただけのような薄い舞台とは全く違って、原作の厚みが丁寧に舞台化されていると思った。
ただ、やはり原作を知っているからか、整然とした美しさが輝きすぎていて、血生臭く薄汚く残酷でグロテスクな部分に対する物足りなさを感じたことと、わかりやすい脚本であるが故に、その問題提起という意味あいでの言葉の強さが印象に残りすぎることに、違和感を覚えたことも一応書いておく。
とにかく幸せな非日常だった。チケットが当たったことに心から感謝。
以下余談。
久しぶりの観劇だったのだが、そこまで舞台と距離があったわけではないのに、目のせいでよく見えなくなっていることが衝撃だった。その頃左目はおそらくまだ穴が開く前だったはずなのだが。いろいろと、歳をとることの寂しさを感じた。観劇って立体視なんだなあ、と当たり前のことを実感する。

 いくら情報やネタバレを避けていても、「後半が全くのオリジナル」という事前情報や、「62分後の衝撃」というキャッチコピーから、ある程度の予測はできてしまっていた。もしそういうものがなくて、さらに原作を読んでいなかったら、私はこの映画の捉え方がまた別のものになっていたのかとも思うが、よくわからない。

 映画を最初見た時、私は特に前半に退屈していた。それは原作を読んでしまっているから、ああ、こう変わったのか、という見方しかできなかったのもあるが、それと同時にそこに映し出される青春映画に対しても「なんだか嫌」としか思えないのだった。

 思春期の性衝動の描き方、引っ越しの演出、喫茶店や芸能事務所のやり取り、エキストラくらいの立場で就職せず上京してくる浅はかさ、りばちゃんがサリーを押し倒して結局同棲したそのあとのだらしなさ。

 そんな、私にとって「なんだか嫌」なことが次々来る。前半が原作通りと言われたら、原作、巻き込まれ事故になりかねないのでは?などと思っていた。ちなみに私はある種の心の病で、ピュアだったり衝動的だったりする「青春」が直視できないタイプの人間なので、要するに苦手の詰め合わせだったような気もする。
 そして見ながらふと、ああこのまま、私が原作で好きだったシーンは全部ないんだなあ、と寂しい気持ちになった頃、物語はグレーに変わった。

 グレーになってしばらくが一番面白いのは間違いない。パラレルワールドのような感覚。私は岸井ゆきのさんが出てきた時に感じたなんとも言えない「リアリティ」が、強く印象に残った。
 そして種明かしが終わった後、前半ほどではないが「なんだか嫌」な展開がまた起こり始める。
 青春って、そういうことなのかな。衝動なのかな...。

 私は前回書いたみたいに、原作と同じ展開はまったく望んでいない。「死」については原作とは違っている映画を望んでいた。大人だから。

 でも、この映画で描きたいことは、見ている人に伝わるのだろうか。
 少なくとも私は柳楽優弥の顔立ちの存在感とラストの音楽の力で丸め込まれて放り出されたような感覚に陥っていた。わからないなら「それでいい」。しょーもな、と言って気にしないで生きていけということだろうか。
 私は原作との違いを気にして見すぎて映画独自のメッセージを汲み取れなかったのかもしれない。

 私は数日後の空き時間に、もう一度映画館へ行った。

 前半の青春映画でりばちゃんがごっちを演じていると思って見ると「りばちゃんごっち役うまいな」となる。りばちゃんのつけているごっちの仮面が剥がれているのか?と深読みできるのは、やっと与えられたチャンスに失敗するりばちゃんを見る時の表情くらいなので、これだけの演技力があったら、りばちゃん立派に俳優としてやっていけるよ、と、励ましたくなってしまう。(これも、62分後の衝撃を重視した演出なのだろうけど)
 そして、「あえて下手に撮りたかった」と監督が言っている、よくある青春要素が詰め込まれた前半を(私は)我慢して見ているのに、その我慢が後半あまり報われない。前半は結局映画の中の話で誇張された偽りばちゃんなのだから、リアルりばちゃんは誇張された自分を見てもっと不快感を持っていいんじゃないだろうかとも思うけど、そんなこともない。

 監督がインタビューで答えていた「映画にするときは登場人物のIQを少し下げる」話を思い出すと、きっと前半のりばちゃんは後半のりばちゃんよりIQが低いから、小説のりばちゃん>後半のりばちゃん>前半のりばちゃん というIQ関係になっている。後半のりばちゃんは監督設定値で「誇張されてる自分に不快感を持たないが、本は書けるくらい」のIQになっているのかもしれない。さらにIQの低い前半のりばちゃんは「本も書けそうにないし、何も考えず衝動で生きている」っぽいのも仕方ないのかもしれない。うーん。私ちょっといやらしいな。

 実は、ほとんど映画館に足を運ばない私が同じ映画を映画館で二回見るのは、30年前に見た『田園に死す』以来だった。(私はそれを高野浩幸目当てで見に行ったので、ピンクとグレーを見に行った中島君ファンと変わらないのだが)
 『田園に死す』も同じような構造の映画。(本当はほとんど忘れていて、ピンクとグレーを見終わってから復習をした)
 見ていたものが映画の中の話だということが途中で明かされ、モノクロになるところも一緒だ。でも多分、導入の映画の部分はもっと短く、映画自体には不自然なひっかかりがある。自分の自伝映画を真実と異なり綺麗に作った監督が、後半真実を明かしていくような作りだから、前半と後半は分断されていない。

 満たされない。これはどういうことなんだろう。きっと監督は本当に限定された状況でできる限り撮りたいものを撮ったに違いない。でも、もし許されるならこう撮ってほしかった、というものは私の中にあるのだろうか。

 そんな時「ムービーウォッチメン」でピンクとグレーが取り上げられるということを知った。「ウィークエンドシャッフル」はたまに興味があるとPodcastで聴くくらいだが、せっかくだからもやもやした気持ちを言語化したいこともあり、感想メールも送った。

 聴いて、あーなるほどなあ、とだいぶすっきりした。
 私は映画をさほど見ないのでよくわからなかった「記号的」という前半の演出に関して説明してもらえたのと同時に、「キャラクターチェンジ」の理由や、「たぶん監督が伝えたかったと思われるメッセージ」も理解できた。番組でも「IQ下げすぎ」問題は挙げられ、「例えばもっと演技論のような方向で面白くできたのでは」とも言われていた。なるほど。

 聴きながら、私はそれまで不快感を持っていた「少しIQ下げる」って概念も、映画制作論として映画内で言及すれば面白いんじゃないだろうか、と思えてきた。りばちゃんをイラつかせ暴れさせるのは後半の菅田将暉ではなくて、前半のさらにIQ低めでデフォルメされた駄目すぎるりばちゃんの菅田将暉って方が納得できる気がする。
 原作は「ごっちを演じることによって同化する」わけだけど、映画は真のごっちは結局出てこないのだから「ごっちを演じることによって、自分を客観的に見せつけられてイラつく」というのが、あくまでりばちゃんの個人的な話として分かりやすい。

 というかあれだね。前半見せられていたりばちゃん(菅田くん)と同じようなことをリアルりばちゃん(中島くん)がやっている状態を見ているりばちゃん演じるごっち(中島くん)が見たかっただけなのかもね。それこそベタだね。

映画「ピンクとグレー」を見た日(ネタバレなし)

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「桐島、部活やめるってよ」は、映画を見てから原作を読んだ。そして、映画に感じたなんとも言えない懐かしさは、映画独自のものだったのだということを知った。映画部の男子が休みの日に鉄男を観に行っているとか、若い原作ファンは何これ、って思うのかもしれない。私の世代を仲間に入れてもらって申し訳ないなと思うようだった。

 監督が咀嚼して映像化するのだから、その監督のバックグラウンドにある文化、思想などが原作にブレンドされて、別の良さが出てくる。そして、その監督が自分と近い世代であれば、きっと原作に感じたある種のもどかしさに一つの答えを与えて作品にしてくれるはず。
 私はピンクとグレーの映画化に、そんな期待を抱いていた。

 実のところ行定勲監督の映画を見たことがないので、どういう映画を撮る監督なのかよく知らない。事前にネタバレを見ないように気をつけてはいたが、広告の煽りなどはどうしても目に入る。ああいうことかもしれない、と予想してしまいそうになるが深入りはしないように気をつけて映画館へ行った。

 見終わった。

 帰り道、私は何もこの監督のことを知らないで自分の都合のいい期待を抱いて映画を見に行ったんだな、私向けに映画を作ってくれたわけじゃないものな、と当たり前なことを思いつつ、もやもやしながら無性に文字が読みたくなり、映画館近くの図書館へ行った。そして「一人でもとれる映画の撮り方」と、「ゼロからの脚本術」の2冊を借りた。後者は10人の監督にどうやってその作品を作り出したのかインタビューしている本で、行定勲監督も載っていた。「原作モノの名手として知られる」と行定勲監督のページの最初に書かれていた。そうなのか。

 インタビュー中「ひまわり」という映画について語っている中に、ある撮影中に亡くなったスタッフのお葬式の帰りの出来事から着想を得たという話の流れで、次のような記述があった。

それが脚本に書かれた時に、僕は初めて、演出家として何が描きたいかわかった気がしました。死んで行った人たちは去っていくけど、残された人間は、生きていかなければならない。そこでどんな感情を持って、死を乗り越えていかなければいけないのかーーーそれが、自分が描きたい確固たるものなんだろうと思いました。

 また、「遠くの空に消えた」という映画についてのインタビューの流れでは、以下のようにも書かれていた。

完成した映画は、大林宣彦さんや岩井俊二さんから褒めていただけた。でも、興行的には大コケした(笑)。「ヒットする」と言って、自分でも果敢にいろいろ動いて、それに乗って出資してくれる人や、逸材のスタッフが集まった。初めて「やるだけやっちゃえ!」と思った映画でした。
 そのぶん、当たらなかった現実が大きい。自分の中では大きな傷になっていて、それ以降の作品では「もう少し世の中に伝わるものをやろう」という意識が強くなっています。結局その繰り返しなんじゃないですかね。そこが映画の、難しいところなんだと思います。

 「残された人間が生きていく」「もう少し世の中に伝わるもの」

 なるほどな、そういうことを撮りたかったのだな、と思いながら、私はそれでもどこかに旅に出たいような気持ちになっていた。

 私はピンクとグレーの原作を手放しに素晴らしいとも思っていない。特に作品中の「死」は、映画になった時に変わっていて欲しいと思っていたし、大人の男性があのまま映像化するとは考えづらいものがあった。「残された人間が生きていく」そんな監督の映画作りのテーマが描かれ、広く若い人たちに伝わる映画。ピンクとグレーが同世代の監督の力でそういう映画になっていたら、本当に嬉しかっただろう。

 何をどうして欲しくて私はこんなに旅に出たいような気持ちになっているのだろうか。
 それがわからなかったので、私はもう一回映画館へ行くことにした。

テゴマス新曲

日々の姿勢を何とか、と言いつつ、何だかんだで自分を甘やかしていたら半月過ぎた。時間が過ぎるのが早すぎる。
この期間は、新潟の実家へ少し帰ったり、今まで放置していた件の片付けをしてみたり、そんな感じだった。今後の方向性が定まらないこともあり、気持ちは晴れず、引きこもり気味の暮らしぶり。
なので、全く違うことを考える時間を作るために、この日誌の更新をしてみる。


実家に帰ったとき、四歳児を母親に任せ中学生と二人でカラオケに行った。二人だと別に空気を読むこともなく当然のようにNEWSの曲中心になる。私は歌いたいというより、ただ、リモコンの履歴に曲名を残すのが目的だった気がする。NEWS好きが歌いまくったと、次の人にプロファイリングして欲しかっただけかもしれない。

同行した中学生はうまいかどうかはおいておいて、ハモりたい子。だからテゴマスの曲を歌いたがる。曲を決める際「テゴマスで何が一番好き?」と聞かれたので、
「魔法のメロディ」
と即答した。
中学生は「へー意外」という反応だった。もっとマイナーな曲を答えると思ったらしい。

私はNEWSの曲ほどテゴマスの曲を聴き込んでいないかもしれない。たぶんテゴマスは「歌えるアイドル」「聴かせるアイドル」路線でずっと来ているから、どうも楽曲があまりにもデュオの「ベタ」過ぎて、基本的に私の聴かない路線が多いのだった。

家族の中学生は綺麗な歌声が好きな子なので、どちらかというとNEWSの曲よりテゴマスを好んで聴き、私に対して「ひねくれてるからこういう曲好きじゃないでしょ」と言ってくる。まあ、否定できないけれども。

3月に出た「サヨナラにさよなら」も、初回盤のメイキングはおそらく中学生が喜ぶし、私は通常盤の他の曲が聴きたかったので両方購入した。でもタイトル曲は本当に二人で歌うミディアムバラードとしてベタすぎるほどにベタな歌。たぶんジャニーズ無関係にこういう路線が好きな人たちっているんだろうから、別にそれはそれでいいんじゃないかと思う。きちんとこういう曲がこなせるのは大事なんだろうし。

個人的には、テゴマスといえば「ミソスープ」や「青いベンチ」じゃなくて「魔法のメロディ」だと思っている。青いベンチはカバーだし、ミソスープも曲の内容からしてテゴマスじゃなくてもいいような気がするのだか、魔法のメロディはアイドルのテゴマスだからこそ映える歌で、しかも可愛い楽しいだけじゃないので、すごくいいと思うのだよなあ。

最初の掛け合いもハーモニーもいいのだが、増田君の「その憂いも」の少し苦しそうな高音あたりから、「どんなときも口ずさめば Ah」の力強いハモり部を経ての最後のかけあいとハーモニーまでの流れが特に好き。
私は、テゴマスの場合、聴き惚れるのは手越君の声で、心を打たれるのは増田君の歌う姿だったりすることがある。この曲はその傾向が顕著かもしれない。

この曲の入っている「テゴマスのまほう」というアルバムは非常にバラエティに富んでいて、ベタばかりでないので好きな曲は何曲かある。でもやっぱり「魔法のメロディ」はその「魔法」っていうコンセプトがテゴマスにぴったりで、1番というとこれになる。

ところで、NEWSの新曲はまだかまだか、と思っていたらたてつづけにテゴマスが曲をリリースすると発表があったので、最初は正直、エッ?と思ったのだが、曲のタイトルが「猫中毒」で、アップチューンな曲で、スカ・キャット・ポップとか、なんだそれ、だし、へー、船山基紀先生編曲かーなどと、調べていたらどんどん興味が出て来た。さらに、通常盤のカップリングに「魔法のメロディ」の小松清人さん作曲の曲もあるので楽しみにしている。

でも、私にとっては、テゴマスにこやしげの声が混ざってるNEWSの方がどうしても面白さで上回る。なので、NEWSの新作を首を長くして待ち続けますけどね。

嫌いな歌という問

家族の中2女子に、「NEWSの歌で何が1番好き?」とか、「メンバーのソロ曲で何が好き?」とか次から次へと聞かれた。まあ、しいていえばこの曲、と答え続けていたら、「じゃあ、NEWSの曲で1番嫌いなのは?」と聞いてきた。

そんなこと考えたことがなかったので、一瞬答えに窮したわけなのだが、一曲あげるとしたらアレだ、と答えたのが、

「ムラリスト、かなあ」

まず述べとくと、私は基本的に小山君と加藤君の歌を贔屓にしている。彼らの少し変わった声質と不安定さが面白いと茶化すわけでもなく真剣に思っている。ちなみにソロで延々聴きたいわけではなく、ボーカルグループの構成としての面白さだけど。

で、このムラリストはそのこやしげが歌っている歌。もう一曲「チラリズム」も同傾向だけど、そっちはまだいける。でもムラリストはどうも苦手なのだった。

チラリズムもムラリストも男子の欲望的なものを歌っている歌。でも「チラリズム」はまだ高校生が照れて少し難しい表現してみたりする奥ゆかしい感じがあるんだけど、「ムラリスト」に関しては、コンパで酔っ払ってる大学生みたいで、バカだなあ...っていう感想しか持てない歌になっている。たぶんそれが狙いだろうし歌としてはほぼインパクト勝負だから、繰り返し聴くのにきついのだよなあ。

あと、あまりにメロディが「夏のお嬢さん」すぎるとか、こやしげにあてがわれた役割がはっきりしすぎてキャラづけのためだけの歌に聴こえてしまうというか。あくまで楽曲の話でだが。

と、絞り出して答えたのだが、中2女子に「それこやしげの歌じゃん、だめ、NEWSの歌で!」とあっさり却下された。答えて損した。

NEWSプレイリスト2013春

今年の初詣で春日大社で引いたおみくじはそういえば「凶」だった。しかも巫女バイトのお姉さんがふわっとおみくじスティックを戻してシャッフルしなかったので、とりやすいところにあった同じおみくじを素直に引いた四歳児も凶だった。

と、それを思い出せば納得できる今年に入ってからのこの感じ。そういう気分をなんとか払拭するためにiTunesでNEWSのプレイリストを作ってみた。
興味を持ち始めてからコツコツと音源を集め、シングルのカップリングも中古でだいたい集めて、残すはあと2曲といったところ。現段階でその中からセレクションするとこんな感じになる。以下、括弧は収録されているシングルやアルバム名。

Fighting Man (Fighting Man)
Quntastic! (WORLD QUEST/ポコポンペコーリャ 初回B)
Love Melodies (さくらガール [初回盤])
SNOW EXPRESS (color)
さくらガール (さくらガール)
秋の空   (LIVE)
Smile Maker (color)
ワンダーランド (LIVE)
Say Hello (touch)
NANDE×2 DAME (TEPPEN)
アリバイ  (pacific)
BE FUNKY! (LIVE)
チャンカパーナ (チャンカパーナ)
ラビリンス (恋のABO)
OPEN YOUR EYES (恋のABO)

去年ファン投票でベスト盤を作るということで私も投票したけれど、シングル以外の4曲ということだったのでそのとき選んだのは「Smile Maker」「BE FUNKY!」「ラビリンス」「NANDE×2 DAME」。結局そこからはSmile Makerしか上位に行かなかったので私の趣味は昔からのNEWSファンと違うのかもしれない。

「Fighting Man」は2011年10月にNEWSを調べ始めた時に動画サイトで聴いてNEWSに興味を持つきっかけとなった曲の一つ。6人時代最後のシングル。歌割が細かくいろんな声の組み合わせがめまぐるしくて何度聴いても飽きない。伴奏だけ聴いてても面白い曲なのに、ハモリやら拡声器声やらこれでもかと詰め込まれて聴きどころがとにかく多い。詞は応援(説教?)ソングなわけだけど、なんだか気持ちのこもってない高田純次風無責任な感じが曲の雰囲気に合ってていい。

「Quntastic!」は「WORLD QUEST/ポコポンペコーリャ」のカップリングで、4人になってからの曲。この曲で好きなのはAメロ。小山加藤のパートにテゴマスが上から下からハモったりハモらなかったりする個所が特に好きでよく聴く。この曲を「Fighting Man」の次におくと、その次に持ってくるのは「Love Melodies」かなと。透明感のある声を持つテゴマスを有するNEWSに合った雰囲気のいい歌。

「SNOW EXPRESS」も「Fighting Man」と同様NEWSに興味を持つきっかけとなった曲の一つで、私が見たのはどこかのアカン子がUPしていたUnplugged Live。でもおかげでジャニーズに対するちょっとした偏見が消えて入りやすかった。この曲は山下達郎作曲ということで私世代には非常に馴染む曲調。
「Unplugged Live」は「LIVE」というアルバムの初回限定盤のおまけDVDなわけだが、後にそれを中古で手に入れてからは四歳児(当時三歳児)が気にいり何度も見たがるので、私も調子に乗って言われるがまま再生した。だから続いて「さくらガール」「秋の空」と選曲しているのはその影響かもしれない。

「Smile Maker」。"NEWS=応援ソング"ってよく言われるが、私はもう、君らに応援されてもな、と思うのが普通の年齢。でもこの歌はそういうこと無関係に本当にいい。ラップが多いけど別にクールに決めるってわけでもなく、メッセージも冒頭命令形で言ってる割には押しつけがまし過ぎず。アレンジも控えめで美しいのに力強い。ファンセレクションBESTからこの曲が漏れたらどうしようかと思ったが、収録されて良かった。
そしてこの曲に続けて聴きたいと思ったのは「ワンダーランド」。LIVEというアルバムは名曲が多いのでこの曲を特に取り上げる人は少ないのかもしれないが、どこか「Smile Maker」に通じるような美しさと力強さがあり。しかも疾走感もあって好きな曲。

そしてガラッと変わって8人時代から「Say Hello」と「NANDE×2 DAME」の2曲。8人時代は若くてピュアすぎるというか、ちょっとした気恥ずかしさがあって6人時代よりはあまり聴きこんでいないのだが「Say Hello」は楽曲の良さからその若さが魅力的な形で完成されているのであまり気恥ずかしさがない。一方の「NANDE×2 DAME」は8人時代で一番よく聴く曲。8人のそれぞれ違った個性のあるそれも当時の若い声が、イキがったラップでかっこつけてみたり、少年らしい綺麗な声で歌ってみたり、それこそ成長過程の男の子の恋愛に対する多面性というか混沌が若い8人のボーカルで奇跡的に生み出されてる曲だ、といったら多分褒めすぎで、実は単純に面白いから好きなのだが。

で、この並びだと次は「アリバイ」になる。現在のNEWSを構成している4人が歌っているこのまったりした曲を挟み、「BE FUNKY!」へ。トラブルマン主題歌のこの「BE FUNKY!」って何でファンセレクションから漏れたんでしょうね。まずシングル向きな完成度の高い曲だと思うのだけどシングルでもないし、ファンセレクションからも漏れるってどういうことだろうか。不遇すぎるのじゃないだろうか。今更LIVEってアルバムを手に入れて聴こうって人は少ないだろうし、ほんとうにもったいない。

そしていわずとしれた「チャンカパーナ」。この曲に関しては語ることが多すぎるのでまたいつか書くとして、チャンカパーナの前に持ってこれるのは「BE FUNKY!」しかないと思ったのだが、チャンカパーナの後に持ってこれる曲がよくわからなかった。そして単に好きな「ラビリンス」を持ってくることにした。歌謡曲調という共通点だけだが。

「ラビリンス」は、まだ4人でのNEWSのシングルがリリースする前に、4人のボーカルだとどんな雰囲気なんだろうなというのをイメージしやすかった曲で、小山加藤のパートがすごく魅力的だというのが好きな理由なのだった。4人NEWS大丈夫かなあ、こやしげはどんな役割になるのかなあなど不安のあった頃、この曲を聴いて、4人ってのもありだなと思った。この曲の2番のサビ直前の掛け合いのところの小山パートは不思議な細かい微振動がのっかってるような不透明な声で色気があってすごく好きだし、1番の加藤手越の掛け合いパートは二人の声が対称的、かつ、加藤君の声の出し方がすごく良くて魅力的なのだった。

そして最後に持ってきたのが「OPEN YOUR EYES」なのだが、この曲はラビリンスといつもセットで聴いていた。この淡白な曲が、いろんな濃い曲を中和する気がしてエンディングにふさわしいかと。そしてまたリセットして最初の「Fighting Man」に戻る、そして繰り返す。


昔、自分セレクションコンピテープを作り、それをよく友人に勝手に送りつけていた。あの頃は編集も大変でテープの長さという制限内でいかに仕上げるかにとにかく燃えていたっけ。
あれは、自分でテープ編集して聴くだけでなく、人にあげることで共有したかったのかなあと思う。facebookとかでいうところのいいね!みたいないわゆる「安っぽい承認欲」ってやつに近かったのかな。今から思うと。

加藤先生の二作目の件

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「ピンクとグレー」の時は、読み手として思いつめていた部分があったというか、変な緊張感を持ちつつ本を手にしたことを覚えている。あの頃はNEWSをウォッチしはじめそれはもう物凄い勢いで過去を辿ってはまっていったのに、これからの活動の情報など全く得られず、悲観的な声ばかり聞こえていた頃だった。
そんな、全く情報が与えられない頃に、加藤君の処女作「ピンクとグレー」が供給された。そのためか、本に書かれているいろんな文章を貪りつつ、過剰なくらいに真剣に感想文を書いてしまったような気がする。

去年NEWSは再始動し、ベストアルバムとシングルをリリースし、夏にはツアーを行った。結局私は可能なものはすべて買い、中2女子と二人で神戸のライブを見に行ったり、4歳児とイベントにも参加したり。それはもうなにひとつ言い訳できないくらいにファンらしい暮らしぶりだった。
そんなこんなで、アイドルNEWSが送り出してくれたものを一年間ほぼ見てきた私は多分、一般の小説のように「閃光スクランブル」を読むことは難しい。

例えば私の娘が小説を書いたとしたら、その小説を解析して、彼女という人間の理解への手がかりにするような気がする。同じようなことが「閃光スクランブル」にも言える。それはある程度仕方がないことだが、小説を書く立場からしたら「違う。そうじゃない」と反論することもできないことだったりするんじゃないかとも思う。

私自身ちょっとした心当たりがある。
私は中学生や高校生の頃、とにかく時間があれば何かを書いて新聞に投稿したりするのが趣味なイタイ子だった。小説、詩なども含む各種駄文。もちろんペンネームを使ったりしていたので、自分ではうまく隠れてやっていると思っていた。
ある時、父親の本棚にあったスクラップブックを勝手に見たら、そこには私が投稿したもの(と父親が思った記事)がたくさん貼り付けてあった。私じゃないものが混ざっていたりもしたが、一番嫌だったのは、私の書いた小説のところどころに蛍光ペンでマークがついていたことだった。

父親がどういうつもりでマークを付けてそれで何を感じたのかなどは知りようがないけれど、そのマーク付けされていたところは確かに私が実際使っている道具だったり、なにか現実の私とリンクする部分ではあった。でもあくまで小説として自分と切り離して完成させたはずの世界だというのに、その蛍光ペンが生の私をあぶりだそうとするのだった。かなり無理やり、こじつけ気味に。

だから私も単純に書かれたものの一部を切り出すだけの「マーカー」のようなことはしたくないとは思うのだけど、基本的にファンの妄想上の存在である「アイドル」との兼業作家となると、「アイドル」というリアルなようで結局はフィクションなものがサイドストーリーになっているようなちょっと面白い構造にも思えてくる。小説を読むとともにアイドルである著者を解析して楽しむという若干身勝手なエンタメ。

ピンクとグレーが提供されたあの頃、読み手としての心情と小説の内容にリンクする部分があったように、エンタメ小説と位置付けた「閃光スクランブル」も、NEWSの活動で加藤君を満喫させてもらった去年をふまえて読むからより楽しめる気がする。というより、そういう複合的な快楽に近い刺激は普通に小説読むことじゃ味わえないことのような気がする。

以上、だらだらと書いたが、私は結局、加藤君が小説で使った「覚悟」って言葉のことを言いたいだけなのかもしれない。去年NEWSの活動を見ていなかったら、その言葉の深度に気がつくことはなかっただろうから。

感想文はまたいつか。でも何事も忘れないうちに書くのが大事。

今更「ピンクとグレー」感想【ネタばれ】

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 今更だが、「ピンクとグレー」感想ネタばれバージョンを無理やり仕上げた。ネタばれを含むので、本文ではなく「続き」の方に書いてみる。

 といっても書きかけのままで3カ月放置して、結局まとまらず内容が散漫になってしまった。あまり寝かせすぎるのもよくない...。


 

カウントダウンの件

 ブログの更新をしなかった時期にNEWS(ジャニーズのグループ)に関して動きがあった。JEのサイトで謎のカウントダウンが始まり、それまでほとんど活動の様子が伝わってこなかったから何か始動するんじゃないかと一部で話題になっていた。
 しかし、そのカウントダウンが始まって少しして、どうやらカウントダウンフラッシュを解析したらしい画像が流れているのを見た。私はフラッシュにさほど明るくないので、SWFファイルから画像が取り出せるということすら知らなかった。そんなことできるんだなあ、それにしても無粋なことをするなあ、と少々その画像を見てしまったことにがっかりしていた。
 カウントダウンが終わった時に何が起こるのだろう。あの流れていた画像が出てくるのだろうか。私もすっかりJEの思うつぼで、カウントが0になる瞬間パソコンの前に待機して画面を見ていた。
 だが、たいしたことが起こらない。ストップしている感じだ。ツイートを眺めていると、音が流れた人がいる様子。別にこれといったことが起こらないので、アクセスが集中しているのかなあ、と、がっかりして寝た。
 翌日改めて見ると音楽が流れて4人のシルエットが薄くなったり濃くなったりしている。なんだか腑に落ちない。これでいいのか?あのカウントダウンはこれか?いや、それよりあの見てしまったあの画像。あれが気になる。何のソフトを使って見ているかはその画像でわかっていたので、体験版をインストールして、swfファイルを開いてみた。すると...

 本当にびっくりした。flaファイルの状態になって、Action Scriptまで見れるのか。衝撃だった。こんなことが可能ということを今まで知らなかった自分。Action Scriptが読めるということは、イベントが起こるタイミングが全てわかった状態になったということだ。
 そしてその一方、こんなことが可能ということは、フラッシュに秘密のイベントを仕込むことは難しいということになる。あっさりオチとなる画像が流されてしまうし、せっかく作りこんだAction Scriptも全て見られてしまって全シナリオが解析されてしまうということだ。いったいどうするのが正解なんだろう。スマホ版のようにフラッシュを使わずURLをジャンプさせるのが一番いい方法なんだろうか。

 とりあえず、私はAction Scriptを勉強するという口実でそれを読み、その後はイベントを見逃さないようにした。「このタイミングでこれが起こるはず」が実際起こるのを見るのは面白かった。
 だが、実はそれだけじゃなく、すごくファン思いな良いシナリオが組まれたflashだったんじゃないだろうか。メンバーカラーに変化するとか、次のカウントダウンが始まるのが近づくにつれ、鼓動が大きくなり生きかえるようなドキドキモードになるとか、4の並ぶ一瞬だけメンバーが現れるとか、いろんな意味でくすぐられる作りだ。(一回目のカウントダウン終了のアレ以外は)
 とにかく楽しませてもらえた。そしてこのカウントダウンのおかげでいろいろと勉強になった。

 関係ないけどあのフラッシュの一部使えばNEWSタイマーやNEWS時計簡単に作れそうだよね。作って配布してくれたらきっと喜ばれるのに。

「ピンクとグレー」感想【ネタばれなし】

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 加藤君の「ピンクとグレー」が発売されたので早速読んだ。本気で楽しみにしていて、アマゾンから届いたのが発売日の翌日だったため、それまでネタばれを見ないように細心の注意を払っていた。せっかくなので感想をまとめておこうと思う。 内容に触れる感想は【ネタばれあり】バージョンを書くことにして、とりあえずネタばれなしバージョン。

 以前書いたように「買って良かったと思える作品でありますように」とずっと願っていたわけだが、自分の想定していた買って良かったラインを軽々越えた作品だったので安心した。傑作だと主張するつもりはないが、良作だとは堂々と言える。ただここのところ加藤君を嬉々としてウォッチしている立場なので、全く公平な気持ちでこの本を読めているのかは私自身観測しようがないが。
 私は評論目的で読んでいるわけではないので、良し悪しは「没入できたか」「響いたか」「余韻はあったか」という一般アンケートのようなもので測ってみるしかない。よく見かける感想は「前半は表現が硬くて読みづらかった。」というものだが、読み始め、特に第一章は、意識して「なめられないような」文章を書いているのだろうなと思った。あえて架空の番組ではなく具体的な番組が連想されるように書かれていて、文字からシーンをイメージするのが苦手かも知れない読者層が既存の映像で補えるように配慮しつつ、それがチープに見えないように平易な表現が避けられている印象。
 ただ、前半、表現が硬いとか難しい言葉があったというより、『情景がよくわからなくて解析した』個所は確かにいくつかあった。そういう意味では、読んでいて没入から離れ我に返っている個所もあったということになる。子供時代の記述も意外と淡白だと思った。もっと書き込めば書けそうな(というかついうっかり行数を稼いでしまいそうな)内容なのに。でも、面白くないというわけではなくて、子供時代と高校時代の部分は、コンパクトにその時代の幸福さが描かれている。そういう事象がすっかり遠い過去になってしまった私などには、描かれているような失われてしまったなんでもない時間が懐かしい。
 芸能人として鈴木だけが売れていく部分の記述に感じるリアリティはやはり著者ならではで、私などの一般人が見えているものを内側から補完してくれる。別に芸能界の裏側を覗き見して楽しむという趣ではなく、そのどうにもならない大きな力で引き離されていく二人の運命と思いが、芸能活動などとまるで縁のない私の身近な話に思えてくる。
 そして決別、再会、「衝撃の展開」へと話は加速していく。なんだろう。圧倒された。別にこのあたりにくると細かいこと云々がどうでもよくなる。私はラスト間際一カ所どうしても泣いてしまう個所があり、自分でも動揺した。再読の際にそこを探してわざわざ泣きに行ってしまうとか、読後にそれを思い出すだけでうっとなるような、そういう状態。だから「響いた」「余韻があった」という点で自分で説明が難しいくらいに評価を上げざるを得ないのだ。論理的に感想文書きたかったんだが無理でしたね。

 「整然と美しく文章を書くコツを知っていて、客観的な目線があり読み手を意識できる」というのがエッセイを読んだ時の著者の印象だったが、そういう文章力は今回も感じた。雑誌のインタビューにもあるようにきっと著者は文字よりも映像のインプットが多い「映像の人」で、それを友人に語ったりすることで常に言語化するトレーニングを、結果的にしているのだろうと思う。だから小説でも脳内映像が鮮明にあるものを書き起こしている部分と、演出上必要になって言葉を駆使して構築している部分があるのかもしれない。文章や表現力に物足りなさがあったとしても、それはまだまだこれから言葉だけで構築する技術を吸収していけばいいのだと思う。今回は立場上失敗が許されない処女作であった分、いろんな技術と参考文献を力いっぱいぶち込んでいるからこれがピークだという人もいるかもしれないけれど、泣く泣く構成上削らざるを得なかった部分もあるはずだし、今回いきなり注目され上げられることやら、叩かれることやら、これからも目にするもの全て常に脳内で言語化して今後ますます成長していただけたらと願う。

 インタビューで著者が「5万5千人で埋まった東京ドームを、舞台から眺めた経験のある作家はなかなかいないと思うんです。どんどん成長しながら書き続けたいですね」と語っているのを読んだけど、その著者が見た5万5千人は今、ステージにいたアイドルが作家として踏み出すのを見れているわけで、そういうのもちょっと羨ましい。
 それと、著者は動きながら歌っている時音程外さなくなったらもっといい、かもね。そんな歌い踊る作家を私は見たいですよ。

シゲアキ祭

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 時々私の中の佐藤藍子が出てくる。今回は「加藤シゲアキに改名すると思っていました」
 というか「佐藤アツヒロの文法で言ったら加藤シゲアキだよな」「いつかピンで俳優やっていくならきっと加藤シゲアキになるんだろうな」「昔より今は顔が【シゲアキ】って感じだしな」とは思っていた。書いとけば佐藤藍子にならずにすんだのに残念。
 でもまさかこのタイミングで文壇デビューして改名するとは思っていなかったので昨日は慌てた。文壇デビューはともかく、改名の面白さでtwitter上の一部で加藤シゲアキ祭りになっていた。昔からのファンはきっと「成亮」って名前が読めるから、何でそんなカッコ悪いカタカナに変えるんだって思っているに違いない。でも、関ジャニ∞ファンでコンサートにも足を運ぶ一般よりジャニーズ寄りの私の実妹ですら、加藤君を「加瀬君」と間違えていた。確かに「加藤成亮」は「加瀬亮」に空目しやすいのかもしれない。もちろん私も読めなかった。でも品の良い名前だったけども。

 私が見た範囲での話だが、加藤君の文章の良いところは素直で正直なところだと思う。文章もよく書けている大学生のレポートのような整然とした美しさを感じた。だから、文壇デビューという大げさな煽りに若干不安を感じている。しかも、内容は「芸能界を舞台に、成功と挫折という2つの道を歩む親友同士の話」。ファンやアンチたちは行間を深読みしてあれこれ言うだろうし、無関係な人はそれこそ容赦ないだろうし。
 まあ耐えられるか耐えられないかは加藤君の精神力が試されるだけの話。などといろいろ書いている時点で私の加藤君への肩入れ半端ないことが自分でもわかる。
 多分、買うんじゃないか?加藤シゲアキ著「ピンクとグレー」
 買って良かったと思える作品でありますように。
 

新生NEWS

 ここのところCDを聴いたり動画をあさったりして結構詳しくなったと思うので、新生NEWSについて考えてみる。最近NEWSをなぜリピート再生しているかというと、まず、ユニゾンが心地いい。それに加え、いろんな声の人がいろいろと表情をつけた歌声で自分のパートを歌うので、聴いていて飽きない。私にとって不快な声や歌い方の人がいない、などが挙げられる。どうこの人たちの声を混ぜるとこういうユニゾンになるんだろうと不思議なのだが、ちょうどいい混ぜ具合というのがあるのだろうな、解析してみたいものだ、などと思ってしまう。
 4人になるとすこっと加藤君との声質との間が抜けてしまう気がする。現在でもそんなに加藤君の声はユニゾンに足されていない気がするが、4人になったら比重が増えるはずだし、どんな感じなんだろう。彼の声は合唱向きでないしよく下手だと言われるようなのだが、声がハスキーでパンチがあるので、効果的に使われている歌も多いし、味はある気はする。メインは完璧にテゴマスだとして、小山君は結構ユニゾンにはまるから、下地にほんのり加藤君の声を足すんだろうか?試せないからわからないが。
 ファンページ(海外運営)なんかに今までのグラビアを使って4人NEWSの写真が掲載されているが、それを見ると派手さはないけどビジュアルのバランスは結構いい。動画だと特に加藤君は太ったり痩せたりビジュアルが安定しない気がするのだけれど、特殊な容姿の2名が抜けて4人になると、伝統的な男前である彼に目が行く人もいるんじゃないだろうか。こうやって考えると、新生NEWSは加藤君が頑張ってビジュアルの向上をはかるとともに歌唱の向上を図る。これに尽きると思えてしまったりする。
 ところで、さっきから加藤加藤言っている気がする。今回、NEWSを勉強していろんな過去映像を見たり、各メンバーのインタビュー記事、2ちゃん、ファンサイト、Wikipediaなどで歴史的な経緯なども勉強した。最初はファンのネガティブな意見から変な先入観を持って入ったコヤシゲだけど、以前書いたようにK.K.Kityの頃の姿を見て親戚の子を見るような温かい目で見れるようになった。さらにあまり歌やダンスが得意でないのにエリートエリート言ってるアホな子だと思っていた加藤君の書いたエッセイの感受性と文章力に感心し、そうこうしているうちだんだん肩入れして今にいたる。本当はこういう濃い顔立ちはあまり好きではないのだけれど。
 私は記憶にある一番古いジャニーズはフォーリーブスなので、ひろみ、JJS、マヨ、たのきん、少年隊、シブがき隊、忍者、....と各時代にいろいろ眺めてきたわけだが、このジャニーズ事務所の長い歴史において、加藤君が一番好きかもな。今更恥ずかしいから人には言わないけどな。

 

K.K.K

 ジャニーズの知識を少し仕入れて本屋で芸能誌付近に立つと、書いてある文字列の意味がわかるようになるものだ。今までこんなにアイドル雑誌があることすら気がつかなかったのに。ネット検索するとジャニーズファンのサイトはきらびやかでいいにおいがする(気がする)
 といっても、まだ入り口となったNEWSまわりのことしか知らない。きっかけとなったのは「誰が残ったの?」という疑問なので、さかのぼるとK.K.Kityにたどりついた。そして動画サイトにあったJ-Supportの結成がらみの動画をまとめて見たので、すっかり、K.K.Kの3人が親戚の子のように思えてしまっている。
 結局残ったのはK.K.KityからNEWSに選抜されたK.K.Kのうちの二人とテゴマスになるわけだ。が、Kが三人とも残っていたらどうだったんだろうかなどとも思いつつ、現在の草野君の動画などを眺めていた。もし今もアイドル職についていてこのダンスの能力があったらどんな感じなんだろうか、今の4人NEWSからは一人浮くかもな。だがこの人がいたら山下君もソロとNEWSをまだ兼任する可能性があったかもしれんな、など、もしもボックス的シミュレーション。
 加藤君に関しては、私はドラマを見ないこともあり全く印象がなかったわけだが、文才があるなどとファンが書いてあるのを見て、どれどれ、と少しなめてかかりながらも彼の書いたものを探してみた。結局「青い独り言」というMyojoの連載を誰かが勝手に書き起こしているのを読んだのだが、この子の文章はとてもいいと思う。芸能人のこういうエッセーで、そこにあるものを全部読んだのはだいぶ昔の有吉のサイト以来だ。こんなに丁寧な文章を書いていたのに、アイドル本にもならないとしたらもったいないなあ。Myojo読む層じゃない人にも恥ずかしくなく読めるようにしてほしいわ。あと彼に関しては、歌とダンスの古い映像やなんだかんだいろんな「残念」も見たけれど、シャララタンバリンのPVは文句なく名作。
 小山君の第一印象は「声もルックスも珍味(いい意味で)」だったのだが、彼は一番損な役回りをやってたのかも知れんね。無理してしゃべるってのはリスクをともなうからな。
 K.K.Kityに関してはityの3人もいたわけで、NEWS発足で消滅したこのユニットのファンだった子たちのサイトや掲示板の悲壮感の残骸も目にした。ジャニーズって残酷でシビアだなあ、多分昔からか。

ききNEWS

 ふと途切れるとぱたっと更新しなくなる傾向があるので、一応歯止めの更新。
 最近はfacebookもTwitterもあまりちゃんとチェックせず。発熱した3歳児の看病はしていたけれども、それ以外に大忙しだったわけでもなく。しいて言えば一人になれる時間があまりなかった、ということだ。いつもそうだけど何とか頑張ってやっていたことが、ある瞬間ぷつっと切れてしまってどうでもよくなる、そんな感じだろうか。

 この2週間ほどのトピックと言えば、DISCASで借りたNEWSのアルバムを聴き、TVでテゴマスを視て、過去映像をネットで見ていた。前も書いたが、今までとことん興味がなかった分、見ていたけど見えていなかったものが面白くてしょうがなかった。
 男性アイドルグループは、3人くらいまでなら声の聴き分けやメンバーを覚えるのが容易なので、シブがき隊とか面白くてよく聴いていたわけだが、NEWSもいろいろ映像を見ていたら声の特徴がわかってきて、聴き分けが概ねできるようになった。なかなか時間がなくて全部聴いたわけではないが、アルバムを4枚借りて暇を見つけて聴いている。聴きつつ「今の声は誰だっけ?」など映像を当ってみたりして。
 今更だけど、NEWSの音楽は結構質がよく、年寄りに優しい。「SNOW EXPRESS」と「秋の空」とかUnplugged LIVEの映像がよかったので探して買っちまおうかしら。
 6人で無くなったのは残念だ。抜けた二人のパートを他に割り振るのがあまりイメージできない。というか、加藤、小山の声が特徴ありすぎる。この二人の占める割合が増えるということだよな。この二人の声質に比べると、抜けた二人の声質の方がニュートラルだと思う。特に、加藤(シゲ)の声はポップスというよりロックな感じ。一番好きなのは増田(まっすー)かな。歌い方が素直なので。歌唱力のスペックが高く声に艶がある手越のパートの安心感もいいですが。ま、初心者ですのでこれからもう少し聴きますけども。
 ついに私にもジャニ期が来たのかもしれん。